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2010年1月21日 (木)

須磨海岸の国鉄

国鉄時代の名撮影地・・それも関西でといえば、山科、山崎、武田尾、それに須磨というところが一般的だろう。

特に須磨は国道や山陽電鉄よりも海岸よりを走行し、線路の南はすぐに海という都会の中にあって信じられないような撮影地だった。
線路は複々線で、走る列車はバラエティに富み、しかも運転本素は非常に多い・・

これまでにもこのブログで何回も須磨海岸を走る列車を掲載しているけれど、今、改めて・・須磨海岸そのものを取り上げてみようと思う。

鉄道ファンの間で「スマシオ」とも呼ばれたこの区間は山陽本線の須磨と塩屋の間の区間である。

かつて、線路と海岸の間には邸宅があったようだが、複々線工事の際に全面撤去されてその遺功だけが今も残る。
線路脇の防波堤や海岸に積み上げられたテトラポッドは釣り人たちのメッカでもあるし、引き潮の際に大きくなる砂浜は正式な海水浴場ではないが夏には地元の人たちが、のんびりと水着でくつろぐ場所でもある。

だから、かつて・・国鉄時代には線路を横断する人も多かったし、邸宅跡地のスペースで列車の写真を撮影していても誰も奇異に思わなかった。

瀬戸内海は明るく、凪いでいることが多く、列車の車窓から見る海もまた格別で、そういった意味では都会に残された奇跡の景色といえるのではないだろうか。

その国鉄時代の写真から少し・・

153_4 まずは須磨浦公園からみた松林の向こうを走る153系の新快速電車。
2ドア、全車両がトイレ、洗面所つき、オールクロスの急行仕様が都会の列車に使われていたのだから時代を感じる。
153系新快速は山陽本線での最高速度は設定上は95キロだった。
乗車していると座席下の蹴込み板が、しゃかしゃかと音を立て、軽いモーターのうなりとともに淡々と走っていた。
今の「爆走」する223系にはなかった余裕とでも言うのか・・

153_3153系新快速、もう1枚。
須磨浦海岸の一の谷近くの交番脇から撮影したもの。
この交番には今も昔も走行するトラックの軸重を測る設備が備えられてあって、時折ここで検問が実施されていた。
交番脇からは須磨海岸の砂浜をバックにした写真が撮影できた。
低運転台のクハ153は今見ても優れたデザインだと思う。

Ef58 EF58・・
荷物列車を牽引している。
この当時、一日に5~6本の長距離荷物列車が設定されていて、EF58の独壇場だった。
特急列車を牽引するEF58も良いが、こうして荷物列車を牽引するのも渋くていい。
大型の時刻表には荷物列車の時刻もしっかり掲載されていた。

Ef66 EF66・・
今も活躍する機関車だが、このころは高速貨物はこの形式が牽引して95キロ、100キロで走っていた。
このころからそのデザインの良さで、ブルートレインの先頭に持ってきたいなと・・言われていた。
高規格の山陽本線では高速コンテナ列車は滑るように走っていく。

103 103系・・
屋根の上にはひとつも冷房装置が搭載されていない・・
まだ冷房が贅沢だったころ。
103系は京阪神緩行線ではその性能が限界値の使われ方をしていて、高速で走ると周囲の山の上からも激しいモーターのうねりが聞こえたものだ。

117113 117系が113系を追い越す・・
国鉄の力作だった117系も乗客を増やすことはできなかった。
新快速は一時的に153系時代より速度を落としたことがあった。

せっかくの、ゆったりした快適な転換クロスも朝夕を除けば空いていた。
しかし、国鉄最後のダイヤ改正で列車線走行に改められる。
新快速が先行する平行私鉄に徐々に迫っていったころだ。

Photo 紫煙を上げて突っ走る急行列車。
6両編成・・列車は「みまさか・みささ」だろうか。
当時の気動車は性能が低く、それでも目いっぱいの高速走行をしていた。
ただし、姫路以東では急行券が必要で、乗客は設備的には同じで、急行券不要、安くて速い新快速を利用していた。
オンシーズン以外はこの区間では良く空いていた。

25 最後に鷹取工場から出場し、試運転をしている25型客車。
高砂工場廃止前は、試運転は加古川駅と上郡駅の間で行われていた。
このころは鷹取操車場から姫路駅だったか・・
記憶が定かではない。

今、この区間で列車の撮影をしようにも人間より背の高い金網が張り巡らされ、とても撮影などできない状態だ。
山の上からの俯瞰でも117系の写真程度の位置ならば、無骨な金網が入ってしまう。

海岸の防波堤から撮影しようにもここにも金網が張られているし、線路脇の空き地にでも入ったなら、列車は運転抑止とされ、運行を妨害したとして多額の賠償を請求されるのが落ちだろう。
列車妨害や自殺を防ぐ意味で、JRの安全運行への努力であり、その点は評価できるが、味気ないのもまた事実だ。
いまや列車の撮影は・・
特に都会の幹線の場合は・・駅でしかできないのもまた悲しい現実である。

願わくば、名撮影地付近で有料でも良いから鉄道ファン向けのスペースもほしいと思う僕は・・やはり自分勝手なんだろうな・・

2010年1月 7日 (木)

阪神淡路大震災と鉄道・・その2

さて、体験を書いているうちに鉄道ブログらしく当時の実見した記憶や鉄道関係の友人から伝え聞いた話も残しておきたいと思う。

国鉄時代の話から少し外れるが今回だけお付き合いいただきたい。

震災のような大被害ではまずは人命救助や生活の再建が最優先であり、その場その場での鉄道の運用変更ごときは大した話題ではなく、またこうして記すべきものでもないのかもしれない。
ただ、やはり僕は鉄道ファンであり、それは大災害の時であっても変わらないわけで、視線は自然に鉄道に注がれる。

ただし、当時の僕は神戸の鉄道が完全に復興するまで趣味の写真は撮影しない(もちろん、仕事における記録写真やポートレートなどは撮影しているが)と決めたので、画像は一切ないことをご承知いただきたい。

*神戸市営地下鉄

震災翌日から徐行、一部単線運転ながら西神中央ー板宿間で運行を再開してくれた。
車庫への入庫線をオーバークロスする名谷高架橋が危険な状態だったため、学園都市と名谷の間で単線運転、伊川谷高架橋では架線柱が土台ごと崩落する被害もあったが、これは応急復旧の形で整備されていた。

電車はすべて名谷駅乗り換えで、名谷から板宿の間は複線で20分ごと。
ただし、電車は新長田駅構内まで進んで折り返ししていた。

震災前には「快速」が走っていたが、これは震災後は運休。
その後、正式に廃止された。

全線復旧は意外に早く、2月16日から。
ただし、新長田、上沢、三宮は通過運転で、始発を繰り下げ、終発を繰り上げて夜間工事の時間帯を確保していた。

上沢駅は道路ごと崩壊した神戸高速大開駅至近の位置にあり、駅の前後では線路間の柱が無残に折れ、それを鉄骨で支えて仮復旧していた。

3月16日には新長田と三宮、3月21日には上沢も復旧したが、三宮など、しばらくはあちらこちらで柱が増やされ、通路が閉鎖された様相を呈していた。

神戸市営地下鉄は神戸市民のまさに生命線であり、これの迅速な復旧がどれだけ市民生活の復興を助けたか。
感謝しても感謝しきれない。

*山陽電鉄

震災が起きたその瞬間、崩壊した神戸高速大開駅をまさに、山陽電鉄の特急5000系6連が通過するところだった。
この列車は東二見発阪急三宮行きだ。

幸いにも列車通過直後に駅が崩壊、一部脱線台車があり、パンダグラフも壊れたそうだが、電車そのものは難を逃れた。
この電車がほかに2編成、神戸高速に取り残された電車とともに神戸高速新開地と阪神西灘の間で神戸高速の復旧まで活躍することになる。

震災翌々日には、いまだ板宿駅当方で3000系4連が放置されていた。
ロングシートをはずして乗客が脱出したのだろう、その電車の周囲には座席が散乱していた。

国道2号からみる須磨浦公園付近の築堤があちらこちらで崩壊している惨状、それに塩屋駅が完全に崩壊している状況は、山陽電車のファンであることを自認する僕にはつらかった。

代替バスもJR復旧後にようやく垂水から板宿まで走り始めたような状態で、明石以西の復旧や特急の運転再開は早かったものの、JRの神戸開通後は大勢に影響のない状態だった。
垂水から板宿へ行く際に何度もこの代替バスを利用したが、いつも閑散としていた。

地下工事を進めていた東須磨ー西代間は地上線をそのまま廃止・・地下線の工事を急いだ。
この地下新線も相当な影響を受けたようで、駅の線路間の柱などは横幅の広いものにされている。

塩屋駅はとりあえずは仮説で復旧・・今の駅の東方に設置された。
今見るとこんなところにホームを作ったのが信じられないような場所である。

*阪神電鉄

1月26日に早くも神戸市内、青木(おうぎ)駅まで乗り入れた阪神は、東から神戸に入ったトップバッターだ。
そして、都心部においても2月1日から仮復旧の形で三宮と高速神戸の間を再開してくれた。

この時期に、阪神三宮駅1番ホームに留置していたジェットカー5000系4連は、ひどく壊れていて、とくにすべてのドアが腰のあたりで大きく折れるように曲がっている様子は辛かった。

国道43号を代替バスが走り始めたころ、石屋川車庫の崩壊により、運び出された被災車両がこの道路わきに並べられていたし、いったん高架橋を撤去した御影駅西方では線路が更地になっていて、復旧の前途多難を感じさせたものだ。

代替バスは国道43号にノンストップ便を、国道2号に各駅停車便を走らせたが、このために代替バス運行期間中、国道バスは運休になってしまった。
ノンストップ便はチャーターした観光バスが中心、各駅停車便は普段は国道を走っている阪神バスが中心だった。

ようやく代替バスの運行も落ち着きを見せ始めたころ、阪神は早朝に脱線事故を起こした。
これは線路上を回送可能と判断された電車を回送中に、やはり相当痛んでいたのか、突然脱線したもので、この朝は代替バスが相当混乱した。

このこと自体、当時の阪神の苦悩を物語っているように思う。

青木開通時、梅田を出る電車の行き先表示はすべて「御影」になっていた。
御影に早く行きたい!
それは阪神全社員の思いだったのだろう。
当初、特急は運休し急行のみ、車両の復旧とともに特急の運転本数が増えてきた。

JR、阪急、阪神の中では阪神が一番復旧が遅れ、6月の下旬になってしまったが、個人的にはあの更地をよくぞ復旧したものだと感嘆の思いである。

*阪急電鉄

西宮北口と夙川の間の高架橋が倒壊したために、阪神間3社の中で神戸市内へ直通できるのが一番最後になったのが阪急だ。
このほか、岡本駅西方の擁癖崩壊、今津線への新幹線高架の落下、灘区での橋梁の落下、伊丹駅倒壊、そして何より、三宮のシンボルだった阪急ビルの被災。

電車はかの神戸線チョッパー&VVVF試験車2200系が今津線で被災、伊丹駅は電車を乗せたまま崩壊し、高架下では死者も出た。

しかし、地上線で復旧が早かった御影ー王子公園間を2月13日に復旧してくれたおかげで、JR、あるいは阪神と結んで、神戸ー大阪間を鉄道のみで行き来できるようにしてくれたことは感謝にたえない。
メンテナンス面での都合もあろうが、阪急はこの区間に当時最新鋭の8000系車両を陸送して投入・・
車両の入線にあたっては、かつての上筒井支線の名残の保線用地を活用したのは何とも不思議な気がする。

御影駅はキャパシティの小さなローカル駅だが、乗客が激増して捌ききれなくなるとすぐに、線路を1線にして使わない線路の上に仮設ホームを作り、乗降できるスペースを確保してくれたり、臨時改札を設けたりと、対応の早さが目立った。

しかし、阪急の大阪側の入り口である西宮北口は神戸からあまりにも遠く、代替バスも国道43号なら復興車両とバスのみでスムーズな運行が可能だが、そこから離れる区間が長く、大阪への所要時間ではJR、阪神に及ばなかった。

復旧工事は徹底を極め、高架橋や築堤は作り直した。

こういったことが、震災後の阪急の経営悪化に結びついたことは否定できず、大災害後の復旧の難しさを浮き彫りにしたようにも思う。

神戸高速線にも8000系トップナンバーだったと思うが、これが取り残され、三宮駅西方の高架橋が大きく破損していたので、しばらくはこの電車が花隈と新開地の間を往復していた。

三宮の阪急ビルは震災直後に取り壊しが決定され、優雅な昭和初期の建築物が姿を消した。
同じ時期の阪神ビル(そごう)が被害を受けながらも修繕され、今も三宮の看板として君臨しているのをみると複雑な思いだ。

*神戸電鉄

湊川と長田の間のトンネルが危険な状態にまで被災するという、前代未聞の被害を受けた神戸電鉄だが、鈴蘭台から三田、粟生方面は一部築堤に地盤が緩んだ個所があり、徐行運転をしながらでも復旧は早かった。
1月19日にはこの区間が開通し、北神急行と連絡して都心へ結ぶルートができた。

さらに1月21日には福知山線の復旧に伴い、大阪から三田回りで神戸都心へ行くルートができた。

神戸電鉄に多くの乗客が殺到(僕もその一人だが)、単線区間もあり、15分ヘッドがやっとの三田線の混雑はすさまじい状況だった。

このころ、神戸電鉄は北神急行へのう回路の利便性を図るために、鈴蘭台ー谷上間で北鈴蘭台のみ停車の速達列車を運行していた。

2月7日に長田まで開通。
ここと湊川を結ぶ代替バスを運行開始したけれど、渋滞にのまれ、思うように走れなかったとも聞く。

この段階で北神急行への振り替え輸送を中止したのではなかったかと記憶しているが・・

6月下旬に難儀を極めたトンネルの復旧工事が終わり、全線で開通。
しかし、この震災が神戸電鉄の経営悪化の要因の一つではなかったかと・・
今になれば思う。

*JR西日本

震災復旧はJRの底力を見せつけた。
東から芦屋まで開通したのは1月25日。
もちろん、この時僕が芦屋に行けるはずもないが、大阪通勤時に見た芦屋は、駅舎の一部使用停止、ホーム上屋の全面撤去と仮説上屋の設置、という状況だった。

西から須磨へは1月23日、神戸へは1月30日に開通。
須磨以西で舞子付近まで何本もの電車や貨物列車が停止したまま放置していたのを見ているが、脱線はなかった由、東側でシュプール号が脱線したそうだが、高架崩壊の六甲道に列車がいなかったのは不幸中の幸いか。

さて、須磨から東がひどい状況で、この状態で開業にこぎつけたことに、国鉄時代から続く鉄道魂を見たような思いがした。

今の海浜公園駅あたりに電車線から列車線への渡り線を設け、上り列車は一番北側の列車線を通過、阪神高速の橋脚が崩れ、橋桁が落ちてきている鷹取駅西方ではこの橋桁を鉄骨で支えて、いたが、その高さがようやく下り線の架線と接しない程度で、非常に不安に思ったものだ。

鷹取駅では上り線は鷹取工場すぐわきに仮設ホームを設け、下り線は本来の上り線に仮設ホームを設け、列車線を使う形。

開通初日には操車場の車両、20系客車や12系客車が脱線転覆して営業列車に腹を見せるというまるで映画のような状況。
まずは何より営業列車を走らせ、他はそのあとで・・という方針だったようだが、実際に現場を見ると鉄道マンたちの必死の思いを感じ、涙が出た。

いくら僕が元国鉄マンで、いろいろな状況を見てきたとは言っても、これほど大量の車両がひっくり返っているのを見るのは初めてなのだ。

新長田駅が倒壊しているので、ここは通過扱いだったが、その駅の下を複線で走るために、和田岬線と鷹取操車場を結ぶ連絡線を急遽、電化して列車を走らせる。
さらに、兵庫駅手前で上りは電車線の下りを、下りは列車線の下りを使って複々線のうち、南半分だけで営業。
信号システムや渡り線の設置だけでも大変な工事なのにと思う。
さらにさらに、上りの朝ラッシュ時は快速をすべて各駅停車で運転する必要から快速が通過する駅をすべて12両に応急対応。

そして、不足する輸送力を補うために、本来7連の201系を一部バラして・・
6連2本で12連にして快速用に。
8連を2本作って輸送力アップに・・

さらに、引退したはずの103系電車を大阪や広島から持ってきて応急に使う。

矢継ぎ早の対策は利用者からみれば頼もしい限りだった。

もちろん、JR社員も非常に多くの人が被災していた。
避難所から通勤している人もいたし、自分や家族が被災しているのに仕事を優先、神戸市内では水や食料の確保もままならぬ状況で、鉄道マンを支えたのは使命感ではなかったか。

3月には新長田も仮説で復旧、本来の電車線での運行が再開された。

三ノ宮駅は2月20日に仮復旧したが、駅舎西側は使用停止して交通センタービルの解体工事中。
灘駅だけは電車線を使ってその先の操車場で列車の折り返しをしていた。

電車線復旧後に西側でも新快速が走り始めた。
最初は30分ヘッド、長く通過列車のなかった須磨駅や垂水駅ではこのためにずいぶん気を使ったようだ。

4月1日に復旧後は震災特需の様相を見せ、手持ちの車両を大放出して電車の運行をしている様子がうかがえた。
新快速電車は震災復旧時に臨時の形で増発されたが、これが結局、今の状態につながっている。
当初は車両不足から117系や113系の新快速も運転された。
117系のものはその後も長期にわたって運転されていたように思う。
時には当時の福知山線快速用に改造されたセミクロス編成も新快速運用に入っていた。

代替バスも灘開通後は独特の運用法で、5~6台に一度に乗客を乗せ、同時に出発させる・・
これを数分ごとに繰り返すやり方でラッシュ輸送を乗り切った。
バスの車種による区別はなされず、2階建てのデラックスバスに乗れる時もあれば、九州から応援の一般型バスに乗る日もある。
一般型バスの場合、立ち席があるので「立つことを承知」すれば列からはみ出して飛び乗らせてもくれた。

灘駅は駅の南側からバスに乗ったが、乗るときは駅西方のガードをくぐって乗り場に行かねばならなかった。

住吉駅では国道2号がバス乗り場だった。
歩道上で乗客の整理をし、切符を販売しているその多くの人が新幹線の車掌さんだと聞いた。
普段は快適な列車の中の仕事なのに、寒い中、雨風の吹き付ける中、気の毒に思えた。

新幹線はこの期間に使わなかったから詳しくは知らない。
ただ、妻の実家近く、神戸市西区内で周囲の建物が被害がないか、あっても一部損壊程度のところで新幹線の高架が大きく崩れていた。
橋脚が崩れ、橋桁が川に落ち、線路がぶら下がっていた。

他の高架橋もかなり傷んでいたが、これらはコンクリートで固めたような感じで修理してしまった。
今、その上を時速300キロで「のぞみ」が走る。

あの震災から本当に15年も経ったのか・・あるいは本当に震災があったのか・・

昨今のJRの華やかさを見るにつけ、ふと出る感慨でもある。

2010年1月 4日 (月)

阪神淡路大震災と鉄道・・その1

はやいもので、あの1月17日からもう15年がやってくる。
神戸在住の僕はあの大地震による揺れを味わったjのだけれど、頑丈な公団住宅はびくともせず、我が家の被害と言えば台所の窓ガラスが2枚割れたこと、僕の部屋の本棚が崩壊して100冊以上はある書物が僕の上に落ちてきたこと、テレビが棚から落ちたこと・・くらいだったと思う。
あと、食器や家電がいくつか壊れてしまったことくらいか・・

僕の住む垂水区でも地震の瞬間は体が宙に浮くくらいの激しい揺れだったが、神戸市の都心部、須磨区から東灘区、あるいは芦屋、西宮、伊丹、それに淡路島ではこれより数段激しい揺れが襲ってきたのだ。

地震の時刻は午前5時46分。
神戸の鉄道はようやく通勤電車の始発が動き始めたあとで、新幹線はまだ走っていなかったし、各路線でも速度の出る優等列車は走っていなかった。

そのことがどれだけ鉄道の被害を小さくしたか・・
不運かと思われる神戸の大地震だがこと、鉄道に関しては「不幸中の幸い」という言い方もできるだろう。

僕は当時、大阪、OBPのホテルの写真室に勤務していた。
震災の前々日は日曜日で、成人式の日だった。
土曜日からホテルに泊まりこみ、明け方からずっと成人式の記念撮影をしていた。
そして振り替え休日の16日月曜日も明け方から婚礼の撮影・・

やっと、16日深夜に仕事を終え、大阪駅からの221系快速電車に乗り込んだ時はもう、ぐったりという感じだった。

数日ぶりに夜中に帰宅し、まだ2歳になる前だった娘と少し遊んだものの、体の芯に疲れを感じスグに布団にもぐりこんだ。

けれど、なぜだか切れ切れの夢で頭が異様に冴えて寝つかれず、ようやく睡眠に落ち込んだそのとき、ゆらゆらと体が揺れる。
そしてすぐに、その揺れは激しいものとなり、僕の体は一瞬、宙に浮いた。
布団にたたきつけられ、本能的に掛け布団を被って体を丸くした。
いろいろなものが落ちてきて壊れる音が続く。

幸い、布団を被っていたことで怪我は免れ、隣の部屋で寝ていた妻と娘も布団で守られて無事だった。

揺れが納まると真っ黒な闇の中、これまで経験したことのない静けさがあたりを覆う。
ときおり悲鳴のような叫び声が聞こえるが、それもまたすぐに途切れてしまう。

この日から大阪が遠い所になってしまった。
地震直後から神戸市内の鉄道はすべて運行を停止。

大阪の仕事場へ行きたくても通勤手段すらないという状況になった。

それでも、翌日には市営地下鉄が一部高架橋の破損で単線運転ながらも運転を再開してくれた。
時速45キロ、運行区間は西神中央から板宿までで、すべての電車は途中の名谷駅で乗り換えとなり、約20分ごとの運行だった。

神戸市営地下鉄と言えば高い表定速度、清潔感あふれる車内といったことが自慢だったが、震災から1週間ほどは徐行運転だったし、乗客で一杯の車内には汗や体臭の匂いがたちこめていた。
おしゃれな神戸市民も水が出ず、ガスも使えない状況では自らの清潔の保持など無理だったのだ。

僕は震災の翌々日からテレビやラジオの報道ではわからない友人、知人の安否確認と、生活必需品の確保に走り回った。
(結局、友人知人やその家族で6人の方の死亡が確認され、避難所にいることになった人は数十人にもなってしまった)
大阪への電車も止まっていることで、1日だけミニバイクでボランティアの手伝いもした。

さて、大阪への通勤再開は震災から10日後の1月28日からだ。
この日、僕は朝5時前にミニバイクで家を出て、山越えを敢行、神戸電鉄の鈴蘭台へ出て、神戸電鉄で三田へ、三田からJR福知山線で大阪へというルートをとった。

僕の震災前の平日、朝の通勤時間は1時間40分程度だった。
自宅近くのバス停から山陽電鉄バスに乗り、垂水駅まで、ここからJR快速で大阪駅、そして大阪環状線で大阪城公園駅というものだった。

それが、震災後初めての通勤では5時間近くを要した。

その翌日、夜中に帰宅途中、瓦礫を踏んだようで、バイクのタイヤが一気にバーストした。
そこから自宅まで、約8キロをバイクを押しながら歩く羽目になった。

翌日の出勤は絶望だと思っていたが、まさにその翌朝、JRが須磨から神戸まで復旧し、明石方面から直通運転されることがテレビニュースで伝えられた。

1月30日の朝、始発バスに乗り込んだ僕は、垂水駅から各駅に停車する「快速電車」に乗り、神戸駅まで行った。
復旧といっても仮復旧であり、やっと使える2本の線路をつなぎ合わせて実現したものだ。
だから、鷹取工場わきに作られた仮設ホームや、急遽、電化された和田岬線と鷹取操車場を結ぶ連絡線をつなぎ、しかも、上りのホームは全て快速編成が停車できるように12連化され、朝のラッシュ時の上りは全て快速も各駅停車で

神戸駅には代替バスが並んでいて、これに乗車したが、すぐに渋滞に引っ掛かり、バスは動けなくなってしまった。

結局、三宮まで徒歩でも30分で行ける所を30分以上かかってようやく到着。
ここでさらに代替バスへの行列に並んで・・
僕はJR、阪急、阪神の代替バスのうちで阪神を選んだ。
阪神はこのころでは唯一、東から神戸市内の青木(おおぎ)までは入れる鉄道で、バスの運行距離が短く、大阪へは一番早くつくだろうと考えたからだ。

この考えは正解で、以後、しばらくは僕は阪神経由で通勤することになる。

それでも、このころの通勤時間は3時間50分程度。
寒い冬に行列に並ぶ代替バスはつらかった。

このころ、僕は火曜日が休みで、だから土曜日曜も通勤はしていた。
2月1日、神戸高速と阪神が高速神戸ー三宮を開業。
最初はトンネルに残された阪神5000系1編成が折り返す状況だったが、やがて2月5日から山陽電車でトンネルに取り残された5000系特急編成2本、それに3050系が1本、これで新開地と三宮の間の運転を再開した。

大阪からの帰路、建物が壊れて営業休止状態の「そごう」の下から地下線へ入ると、赤いクロスシートの5000系がやってきてくれる。
こういうときだからか、あのシートはものすごくほっとするような存在だった。

阪急も阪神も、被害が大きかったが、運行できる区間からとりあえず運行をしてくれたし、市営地下鉄はメインターミナルの三宮の復興を待たずに前線で運行を開始してくれた。
2月13日、阪急が王子公園と住吉の間を開通。
この日、神戸駅で電車を乗り継いで三宮についた僕は、ここから王子公園まで歩いた。

さらに2月16日、市営地下鉄が全線で運行を再開すると、僕は新神戸から王子公園までの道のりを歩いた。

これで通勤時間は3時間を切るようになる。

2月20日、待望のJRが神戸駅から三ノ宮を経て灘の間で営業再開。
これで、ようやく、JRに乗ったまま、灘まで行き、灘と王子公園、御影と住吉の間を徒歩で結べば、垂水から大阪まで鉄道だけで行けるようになった。

通勤時間は2時間30分台まで短くなったけれど、以降は激増する人の流れの中で、かえってこれより通勤時間が延びるような傾向になった。

3月の月曜日。
大阪へ向かう大量の通勤客と、神戸へ向かう大量の通勤・用務客で阪急・JRの乗り継ぎはついに破綻してしまう。
灘駅には人があふれ、王子公園駅では乗客をさばききれず、ついに、人の波が全く動かなくなってしまったのだ。

もともとがターミナルではない駅である。
人をさばくのにも大ターミナルのようなキャパシティはない。

この日、僕はJR灘から住吉まで徒歩で結んだ。
距離にして4キロ強、時間にして1時間余り・・

朝ラッシュ時のあまりのすさまじさに、疲れ果てた帰路では代替バスも阪急への乗り継ぎの際の長い徒歩区間も、すっかり嫌になってしまい、時として大阪から三田経由の大回り、神戸電鉄、北神急行、神戸市営地下鉄と乗り継いで帰宅したこともあった。

この時期、大阪在住の祖母が危篤状態・・さらに亡くなったのだが、僕は母と妻を連れて、乗り換えを要するこの区間を行った。
さすがに慣れぬ年寄り連れでは帰路は乗継ルートは使えず、大阪港から船で神戸ハーバーランドまで帰ってきたことだ。

4月1日、JR神戸線は全線で開通した。
その前日、夜遅くに帰宅しているとき、住吉駅や灘駅で代替バスの乗客整理にあたっていたJRマンたちが「明日から電車は全線開通です!長らくご不便をかけしました」と乗客一人一人に頭を下げている光景を目にした。
そして迎えた開通の日。
苦労して歩いた、あるいはバスや阪急に乗り継いだ区間を、113系の快速電車は小刻みで不規則な揺れをおこしながらも、スムーズに大阪まで走り切った。
六甲道のあの崩壊した高架区間を通るとき、涙が出た。

鉄道全体の復旧はまだまだ先のことだ。
一時は路線が更地になっていた阪神、高架橋を一から作り直した阪急の開通は6月に入ってから。
地下線工事中だった山陽は、被災した地上区間をそのまま廃止、地下新線での復旧となったがこれもまた6月。
さらに地下駅が崩壊し、道路まで一気に陥没する大被害を受けた神戸高速大開駅付近は8月にならねば開通できなかった。

JRは非常によく頑張ってくれたと思う。
だが、六甲道付近や山陽新幹線での復旧に使われた「既存の設備をなるべく活かして復旧する」
という方針が正しかったのかどうか・・
一から被災線路を作り直した阪急が、結局は震災被害からしばらくは立ち直れず、長く経営危機にあったことも考え合わせると、なかなかに難しいものだと思う。

JR西日本は真っ先に開業した強みで、震災特需の様相を呈し、震災被害を取り返せたほどの経営の好転に、新快速電車の増発や新型電車投入の前倒しなど景気の良さを私鉄に見せつけるほどになっていき、これが結局はその後のJR独走の足掛かりとなったようにも思う。

いずれにせよ、震災からもう15年・・だ。
僕らは震災を忘れることはできないが、ではその備えへの覚悟はできているのかと問われると、そうではない。
それは鉄道にしても同じではないだろうか。

あの震災ほどの地震がまた起これば…
今度はあのころのようなものではないもっと大きな被害が待ち受けているように感じられてならない。

2009年12月20日 (日)

加古川橋梁

兵庫県最大の川、加古川には一番河口に近いところから、国鉄高砂線、山陽電鉄、山陽新幹線、国鉄山陽本線、国鉄加古川線、神戸電鉄、さらに加古川線の谷川支線といくつもの鉄道の橋梁が続いていた。
その中で、風景が変ってしまったといえば国鉄山陽本線の加古川橋梁だろう。

戦前の架橋技術が優秀であるがゆえに、年月を経ても列車の減速などは必要なく、特急列車などは高速で滑るようにこの橋梁を通過していた。

電車の時代となり、国鉄がJRとなっても、この橋梁の雰囲気は残されていた。

橋の前後に日本毛織の工場があり、その煙突と橋梁の姿はまるで一幅の絵を見るようで、長らく加古川と言う土地の象徴だったように思う。
しかも、そこを走る列車は第一級の幹線らしい風格に満ち溢れていた。

今回紹介する写真はJR化直後のものばかりで、車体側面にJRのロゴは入っているものの、まだまだ山陽本線が「JR神戸線」となりきれなかったころの写真である。

Photo

まずはブルートレイン「あかつき」の長大編成。
後にレガットシートとなる2両目の座席指定車が編成のアクセントだ。Photo_2

そして同じブルートレインでもオール25形による「明星」。
まだまだ、九州への寝台特急が沢山走っていた時代だ。117

そして、117系による普通電車。
まだ、ラッシュ時に新快速の運転がなかったころ、新快速の車両は朝夕には西明石以西は普通電車となる快速電車としてラッシュ輸送に頑張っていたころだ。

Photo_4 大阪方面へ向かう113系の快速電車。

まだまだ113系は快速電車の顔だった。

221系が登場するのはこの翌年のことだ。

この加古川橋梁だが、まだまだ、使えた堅牢な造りだったにもかかわらず、加古川駅付近の立体交差化で架け替えられてしまった。
今の加古川橋梁は、見た目は立派なトラス橋である。

そして、橋梁の東西にあった日本毛織の工場も今は縮小されてしまい、かつての面影はなく、代わりにショッピングセンターがそのあたりに鎮座している。

走っている列車もブルートレインすでになく、117系も臨時や団体を除いてはこの路線には入らず、今現在の主役はステンレスの223系一党か、もしくはコンテナばかりを並べた高速貨物列車ということだろうか。
いずれにせよ、トラス橋ではサイドからの列車の写真などおぼつかない。

ついでにと言ってはなんだが、山陽本線加古川橋梁の3キロほど南にある山陽新幹線の加古川橋梁から。
Photo_3
新幹線0系6連の「こだま」か・・
16連の0系ばかり(最初は0系と言う呼び方もしなかった・・新幹線にはこの車両しかなかったからだ)見慣れた目には国鉄末期に登場した6両編成はいかにも短く、頼りなく感じたものだ。

今現在では最短は4両編成、「ひかり」ですら8両編成なわけで、もはやこの程度の編成を見ても格段に頼りなく感じないから不思議だ。

100
次は既出だが100系「ひかり」のすれ違い。
100系の栄光は短く、後を告いだ300系もすでに主役ではない。

時代の移り変わりを最も感じるのが新幹線のトップスターの姿だろうか。

2009年12月 2日 (水)

30年前の福井鉄道

国鉄に入社して最初の現場忘年会は北陸の山代温泉への小旅行だった。

初めてのどんちゃん騒ぎ、先輩諸氏の酒の強さに恐れおののきながら、男の宴会とはこう言うものだとのエロチシズムに戸惑いながら・・そして、仲居さんと先輩が一人ずつ消えていく奇妙な雰囲気に大人の世界の可笑しさを知ったその夜が明けて・・

帰路は加賀温泉から「雷鳥」で大阪まで帰る予定になっていたが、北陸まで来たら一つくらいはローカル電車が見たいと・・先輩にお願いして皆と分かれて、ひとり、先に加賀温泉駅に行き、やってきた急行「くずりゅう」で福井を目指した。

前夜からの雨も上がり、日曜朝の福井駅前は静かだった。
確かこのあたりにと・・大通りを探すも電車の姿はなく、旅行者には脇道のような・・そう、日曜の朝、商店がまだほとんど閉まっている商店街の中の狭い通りにシックな2両編成の電車が停車していた。Photo

これが福井鉄道との出会いだった。

よく見ると、その電車は連接車で、近代化初期の香りを柔らかい曲線で包み込んだボディは、なかなか都会的に思えた。
ステップを登って車内に入ると国鉄式の固定クロスシートがずらりと並び、座席のピッチにあわせた大きな窓は113系電車の私鉄版を思わせてくれた。

この電車こそ、今も福井鉄道で活躍する200形だ。

車掌さんから「終点まで」と言って切符を購入し、先頭車両、最前部のクロスシートに座った。
そこへ運転士さんが後ろから歩いてこられ、如何にも旅行者風の僕を見て声をかけてくれた。
「どちらから来られたのですか?」
「兵庫県の加古川です」
「遠いところからようこそ・・今日は電車を見に?」
「そうなんです。福井に変った電車があると来ていたもので・・」
「確かに、ウチは少し変ってますね」
「でも、この電車、すごく好きになりました。いい電車ですね」
「ありがとう」
「でも、なぜ連接車なんですか?」
「ああ・・道路交通法の関係で全長を31メートルに抑えなければならないからですよ。古い電車は構わないのですが、新車を作る場合はその法律に従うことになっているのです」

僕はそう言う法律が鉄道にも影響するとは考えてもいなかったから、これはすごく印象に残るお話だった。

「夕べはどちらにお泊りでしたか?」
運転士さんの問いかけに「山代温泉です」と答えると・・
「それは・・大変だったでしょう」と、にやっと笑われてしまった。

昨夜の売春防止法違反かもと言うような・・どんちゃん騒ぎを読み取られたかと・・少し恥ずかしくなってしまった。
(もっとも、僕は宴会が終わると自分の部屋で若手の先輩方と呑みなおしていたから、そっち方面は・・お座敷ストリップを見ただけで・・無縁だったけれど)

さて、福井鉄道初めての電車はスマートな200形の「武生新」行き急行電車だった。
最初は道路上をごろごろと走り、すぐにスイッチバック、そして、反対方面行きの電車とすれ違いながら道路をまたごろごろと走る。
急行であり、路面区間の停留所には停車しないが、速度は低く、その道路上を走る列車のクロスシートと言う不思議な存在はかつての山陽電車を思い出した。

やがて、福井新から専用軌道に入り、高速で飛ばす。
高速と言っても、時速は70キロ程度か・・
それでも、ローカル電車とは思えぬきびきびした走りは一瞬にして僕をこの電車に引きずり込んでくれた。

田園地帯や住宅地を停車駅も多くなく、飛ばす電車。
ポイントには雪よけのシェルターまであり、軌道の整備は悪くない。
まさに、都市間電車と言う印象を強くした。

武生新までの30数分はあっという間で、なんとも気持ちのよい時間を味わった幸福感が残ったものだ。
武生新と言い、新武生と言わないのが新鮮に思える。
福井新と言う駅もある、
Photo_2 福井鉄道は個性的で、武生新構内には古典的な電気機関車も停めてあった。

先ほどの運転士さんに教わって、支線の南越線にも乗りに行った。

終点の駅名の読みが分からず、JR武生駅の裏にあった駅の出札で「くりたべ」と発音したら「あわたべ・・だね」と訂正されてしまった。
栗と粟では字が違う。
僕は神戸電鉄の地元に「粟生」があるのに、粟の字を「くり」だと思い込んでいたのだ。

Photo_3
1両の電車は先ほどの福武線とは全く違うローカルムードの中を重々しく走る。

電車の外観は先ほどの急行電車、200形と比べても見劣りしない近代的であるがゆえに、なおさらそう感じる。
「粟田部に旨い蕎麦屋があるときいてね」そう話す初老のおじさんと僕の二人だけがこの電車の乗客だった。

粟田部は茫洋としたところだった。
まもなく雪が降り始めるその前の静けさのようなものがあたりを支配していた。
雲が低く、紅葉の名残が余計に寂しさを感じさせる。

隣の五分市まで歩いた。

僕が乗車した南越線は末端区間を廃止された後の残り区間だった。
それでも、列車に乗客は少なく、駅は閑散としていた。

廃止が近いだろうことは僕にもすぐに分かった。

武生へ戻り、ここからこのまま、大阪へ戻ればよいものを、また福井まで福武線急行に乗車したように思う。
何度でも乗りたくなるほど、急行電車は魅力的だった。

そして、南越線との違いは、都会の電車のように混んでいたことだった。

福井鉄道にはもうひとつ、好きな車両があった。
140形で、これは名鉄と長野から購入した中古車を上手に合わせてロマンスカーに仕立てた楽しい電車だった。Photo_4
ただ、長野の電車が1両足らず、その分は福井鉄道にあった古い車両を使って同じような電車に改造してあった。
2両固定で、転換クロス、シル・ヘッダがついたこの電車は客用ドアが運転台側に偏り、客扱いに便利なような構造になっていた。
しかし、その外観は本でしか見たことのない戦前の名車で日本最初のロマンスカー京阪600形に似ているように思え、親近感を抱いた。

それ以後、何度か福井鉄道を訪れた。
最後に訪れたのはもう20年ほど昔になろうか。

だから今の、LRT化された福井鉄道にはまだお目にかかっていない。
大好きだった名鉄岐阜の瀟洒な電車たちがここで活躍していることでもあり、ぜひ、見に行きたいと思う。
広電とは、先だって再会できたから今度は福武線だと心には決めているのだけれど。

2009年11月 2日 (月)

昭和51年、飯田線牛久保駅にて。

拙ブログ、過去記事において「モハ52を見にいったころ」でも書いたのだけれど、このときに牛久保駅でじっくり眺めたであろうはずの旧型国電の写真が出てきたので、ここでアップすることにしたい。
(ちなみに、過去記事では駅名が間違っていることも発見しました。訂正しお詫び申し上げます)

さて、昭和51年の春・・一人で出かけた飯田線を眺める旅行では、牛久保から先へは行かず、従って、魅力的な電車や電機が走っていた飯田線北部を見ることは出来なかったのだけれど、それでも、個性豊かな電車たちが晴天の下、その姿を見せてくれたことで満足だった。
思えば16の春、自分の鉄道趣味がちょっと世間一般とは少し違う方向に向かっていると実感した最初ではなかったか。

牛久保駅でクモハ52003から下車した僕を迎えてくれたのは、クモハ42、サハ75、サハ87、クモハ54からなる4両編成だった。
横須賀カラーの旧型電車はどれもきれいに整備された状態で、長い昼休みを味わっているかのように見えた。

54123

クモハ54123・・この系列は戦前の関西で活躍したセミクロシート3ドア車で、いわば、今の113系や223系の先祖に当たるわけだが、この車両はロングシートのモハ60をクロスシート化したもの。87001

サハ87001・・戦後の湘南電車、80系の中間付随車、そのトップナンバー。75101

サハ75101・・こちらは国電のエリート線区、横須賀線の2等車だった車両で、3ドア化されている。Photo_2

サハ75101の車内風景、ロングシート化された部分も2等の座席を使っていて、どこに座っても非常に深くて掛け心地の良い車両だった。42009

クモハ42009・・やはり昼休みで入線して来たクモハ52と並んだ姿。戦前の関西急行電車(今でいえば新快速電車だろうか)の代表格ともいえる車両で、新京阪P‐6や阪急920と比較しても外観上は全く遜色を感じさせない。戦前の国鉄電車の完成型と言っても良いのではないだろうか。52003

牛久保駅で転線するクモハ52003・・クラシカルな雰囲気の駅舎がまた、似合っている。
戦前の流線型としては最高峰の部類に属する名車だ。
運転台の扉が設けられていたり、通風器が改造されていたりするが、アウトラインの良さは充分残っているように思う。
今、JR東海と西日本で原型に近づけて1両ずつ保存されているけれども、この飯田線仕様もまた・・なかなか良い味わいがあると思う。。Photo

そのクモハ52の車内風景。
すっかり飯田線に溶け込んでいる様子だった

僕は当時から「私鉄ファン」であったけれども、幼少期のおぼろげな思い出からか、国鉄の旧型電車は好きだった。
今思えば、飯田線は関西の花形電車たちがその余生をじっくり楽しんだともいえる場所で、その最後のころに彼らに出会えたことは幸せだったのかもしれない。

2009年10月19日 (月)

西鉄、宮地岳線

西鉄には面白い支線もあるし、本線でも見ていて飽きないくらい私鉄ファンを自認する僕にはうれしい鉄道会社と言う印象がある。
けれども、この会社は実はバス事業では日本の最大手のひとつであり、鉄道事業はバス事業ほどの重みをなすわけではないそうだが、かつては非常に多くの鉄道路線を保有し、それがまた活発に走っていたものだ。

僕が鉄道写真を撮影できるようになってから、ようやく宮地岳線と北九州線、それに甘木線を訪れることが出来た。
北九州線、甘木線は次の機会に譲るとして、今回は宮地岳船貝塚車庫の写真をいくつかお目にかけようと思う。

西鉄貝塚車庫にお邪魔したのは昭和53年頃だろうか。
初めての九州旅行で、熊本から大牟田で西鉄電車に乗り換え、福岡入りしたのだ。
このとき、大牟田線特急は最先端の2000系ではなく、山陽3000系をさらにコストダウンさせたような600形だったからがっかりしたものだ。

天神から路面電車で貝塚に向かった。

貝塚車庫ではお願いすると気軽に車庫の撮影を許可してくれた。

福岡市内線電車の写真も残っているのだが、今回は宮地岳線を見ていただこうと思う。

まずは、宮地岳線が「博多湾鉄道汽船が馬車軌道を買収し、これの軌道を改良、改めて宮地岳線として大正13年に開業したその生え抜きの車両が前身のモ2。Photo

Photo_2

この路線は最初から電化の予定で、最初の客車も将来の電化をもくろんだ設計だったが、電化最初の車両、モ9。Photo_3

同じくモ8。

Photo_4

大阪電気鉄道(大鉄・・今の近鉄南大阪線)から譲受した電車を鋼体化したモ13。Photo_5

昭和11年、大牟田線用として登場した車両を転属・改軌させたモ21。Photo_6

国鉄の木造国電、クハ17が前身、鋼体化したク63。

大手私鉄の支線とはいえ、本線である大牟田線とは軌間も異なり、さまざまな面白い電車が走っていた宮地岳線は福岡の強烈な魅力を示す一つの存在でもあった。

僕が訪れた当時、313系の入線も始まっていて、そういた意味では宮地岳線らしい最後の時期だったのかもしれない。

この路線が最近、末端区間を廃止したと聞いて、その頃の繁盛振りを目にしているものからすれば意外な気がしている。
モータリゼーションの急激な進展は都会の大手私鉄支線にも多大な影響を与えているということだろうか。

2009年10月 1日 (木)

改めて赤字ローカル線問題

Photo 日本航空の経営再建問題がここのところ、毎日のように報道されている。
赤字が分かっていながら建設される地方空港、その空港への乗り入れを半ば強制されたことも日本航空の大きな赤字を生んだひとつの要因であることは否定出来ないだろう。
元来は千歳、羽田、伊丹、板付といった基幹空港を結ぶ幹線航空路と、独占状態の国際航空路のみを運行して来た会社だが、航空自由化の波に押され、他社が国際線に進出する一方で日本航空は国内の地方都市を結ぶ路線にも進出、これの度が過ぎた事・・ここに大きな落とし穴があったということか。

この問題を聞いていると、何やら国鉄の赤字の問題を連想してしまうのは僕だけではあるまい。

明治時代に鉄道が国有化されたとき、国鉄は「幹線鉄道」を担い、民鉄は「地方路線」を担うのが方針だったはずで、このとおりに進んでいけば国鉄は赤字に転落などしなかっただろうと思う。
ところが、我田引水ならぬ我田引鉄の時代がやってくる。
代議士たちは己の力を地元に見せ付けるために民間鉄道が建設しようとしなかった路線までも次々と国鉄に建設させていく。
(ちなみに現代では我田引空・もしくは我田引道か)

それでも、国鉄全体がまだ元気で、モータリゼーションの姿などまだなかった時代なら、辻褄は合うものだ。
昭和30年代になると日本の自動車産業は急成長を遂げ、自家用車があふれるようになってくる。
道路整備の進歩とともに自前で線路を有さなくてもよい路線バスも発達する。

結果として経営基盤の脆弱な地方路線から鉄道としての使命を終えたような閑散路線が出現することになる。

昭和39年。
新幹線開業というエポックメーキングなこの年、国鉄は赤字に転落する。

国鉄の赤字は確かに国鉄自体の放漫経営によるところも大きいが、本質的には政治的に押し付けられた植民地鉄道職員への年金、恩給など、あるいは高度経済成長を支えるための莫大な設備投資などの国鉄自体には責任がない部分が大きな割合を占めている。

それはともかく、新幹線開業と国鉄の赤字転落とが同じ年であったことに、僕としては深い感慨を抱いている。

さすがに当時も国鉄の赤字は大問題だったらしく、昭和43年、国鉄諮問委員会は国鉄に鉄道としての使命を終了した赤字83路線を明示し、この営業を終えるように提言している。
この、昭和43年と言う年は、国鉄が近代的な幹線鉄道に脱皮するための白紙ダイヤ改正を行った年であり、全国で特急・急行の大増発が行われたこともまた・・なにやら因縁めいたものを感じる。

さて、赤字83路線を見てみると、このときに廃止されたのは福島の川俣線や徳島の鍛冶屋原線、兵庫の篠山線など、区間廃止の札沼線・唐津線を含め12線区で、他の線区はその後も生き延びていく。
いや、それどころか、白糠線、大隈線(当時は古江線)、三江線のように、まるで傷口を広げるかのような路線の延長工事がなされた線区もある。
(江差線、参宮線、日南線あたりが入っていることにも意外な感じがする)

Photo_2 中には後の情勢の変化や工事による残区間の完成で持ち直した路線もあるが、過半は国鉄改革の際の特定地方交通線として指定され、せっかくの新線区間も長く使われず、廃棄されてしまったり、可部線などは赤字83線区指定後も工事を続け、区間延長し、さらにその先へ工事を進め・・その工事は巨大な廃墟を残したまま中断され、指定当時の非電化区間も結局はJRによって廃止されてしまっている。
利用者も国鉄も政治屋に翻弄されているような印象を受ける。

これらローカル線の維持運営はもちろん、建設費にいたるまで国鉄がその負債として抱えたわけであり、国家というものはいつの時代も交通事業者に多大な負担を与えるものであると・・今回の日航問題を見てもそのように思う。

なぜに、赤字と分かっている路線を建設させたのか。
莫大な資金をつぎ込んで建設させた代議士たちこそ、国鉄赤字の真犯人であり、なぜに彼らをマスコミや世論は糾弾しないのか。
Photo_3 日航の赤字にしても、無理やりに地方空港・・僕の大嫌いな神戸空港や静岡空港などといった無意味なものを次々と作らせ、結果として当然のことながら航空会社や空港運営事業体に巨額な赤字を生み出させた政治屋の責任はなぜ問われないのか・・

鉄道建設公団が工事をしていた路線も国鉄改革でいったん白紙に戻された。
必要性の高いものはやがて第3セクターによって運営することで工事が再開され、智頭急行や北越急行、愛知環状鉄道のような幹線鉄道も開業している。
ただ、このうち、北越急行に関してはせっかくの高規格路線も、やがて開業する北陸新幹線にとって変られ、そのあとはローカル線化せざるを得ない未来が待っている。
智頭急行にしても高速道路無料化が実現するとその経営は今のように安泰とは言えないだろう。
鉄道は国家の阿呆政治屋によって弄ばれている感すらある。

自らの票欲しさ、人気取りだけの政治屋は何党であれ不要である。
国鉄にしろ、日航にしろ、赤字を生み出させた政治屋たちの責任を問い、場合によっては財産を没収してでも穴埋めさせるようなルールを作らないといつまで経っても形を変えて、国鉄の赤字ローカル線問題は生まれ続けると僕には見えて仕方がない。

なお、ローカル線は利用者(特に交通弱者)にとってはなくてはならぬものであり、作った以上、簡単に廃止などできないのはモノの道理である。

2009年9月 3日 (木)

岡山臨港鉄道

僕が鉄道写真を撮り始めた当時、まるで昭和30年代の忘れ形見のような非電化鉄道がまだ沢山残っていた。

神戸から普通列車で日帰りでき、しかも複数の鉄道を一度に見ることの出来る岡山県は、そういった意味では私鉄ファンを自認する僕たちにとって格好の遊び場でもあった。
昭和52~3年当時、山陽本線の姫路以西の普通電車の大半が80系電車で、岡山への撮影行には、その普通電車に乗ることも目的だったように思う。

今回は、その中のひとつ、岡山臨港鉄道について書いてみたい。

岡山臨港鉄道は宇野線の大元駅・・岡山駅からひとつだけ宇野方面に進んだところにある駅・・から発車していた。
この点・・加古川駅のひとつ先、野口駅から出ていた別府鉄道と何やら似ている気がする。

今の大元駅は快速列車も停車する高架の駅だけれど、当時の雰囲気は町外れの閑散とした駅といった感じで、今の駅からそのころの面影を感じ取るのはほとんど不可能だ。
停車する列車は毎時1本程度の普通電車のみで、この普通電車は関西で走っていた旧型国電だった。

Photo この駅のはずれに小さなホームがあり、そこに小さな機械式気動車が停車して乗客を待っていた。

別府鉄道と違うのは乗車したあと・・その乗り心地とスピードだ。
別府鉄道は時速30~40キロ程度で、激しい騒音と船のような乗り心地で時代を超越した風情だったのだが、岡山臨港は、こと乗り心地に関してはずっと近代的だったように思う。
それでも、床の油のにおい、トラックのようにシフトチェンジして走るそのさまは、昭和50年代とて既に過去の遺物であるかのように感じたものだ。

別府鉄道が大正期の創業なのに対し、岡山臨港は戦後生まれの新しい鉄道だ。
しかも、その建設には地元大企業や自治体も大きくかかわっている。

ただし、車両は、特に気動車については中古車ばかりで、開業時に準備した2両の気動車も、地元・中国鉄道に在籍していた戦前派の車両をディーゼルエンジンに換装して就役させたものだと言う。

Photo_2 写真は1両だけ残っていた開業時の気動車キハ3001。

Photo_3 当時の主力は小さい車体ながらなかなか近代的な味を持つキハ1003で、日中はこの車両で充分な程度の乗客しかなかったようだ。

僕が最初にこの鉄道を訪れたのは多分、昭和52年ごろだろうが、そのころの運行本数は片道4~5本ではなかっただろうか。

やがて、学校ができたり、都市化が進展したりで片道12本程度の列車が走るようになり、撮影がしやすくなった。

Photo_4 江若鉄道から流れてきたのがキハ5001とキハ5002で、5001の方は近代的な外観に改造されていた。

Photo_5 もう1両のキハ5002は京阪の「びわこ」号と同じコンセプトのデザインで、戦前の流線型ではあるがなかなか味わい深い形をしている。

さて、お隣の水島臨海鉄道が国鉄型車両に入れ替えたとき、まだ譲受して間もない北海道・夕張鉄道の流線型気動車が、この岡山臨港にやってきた。
転換クロス、総括制御・・岡山臨港では最新の設備を持った車両で、この車両の走っているところを見たかったけれど、その機会はなかった。

僕がいったときには、なぜかキハ5001ばかり走っていたのだ。

Photo_6 入線時の、まだシートをかけられている状態の写真。

Photo_7 こちらは7001と言う番号も新しく、整備が終わり車庫で憩う様子。

Photo_8 そしておまけ・・
なぜか、夕張で固定編成を組んでいた客車も当鉄道にやってきて・・留置されていた。
この客車、手動扉、デッキつきで、転換クロスシート・・
一度、乗ってみたかった。。

Dd13 機関車は国鉄との直通貨物牽引用のDD13・・
2両在籍していて、1両は自社発注で、もう1両は江若鉄道からの譲渡車。

Photo_9 クラシカルな102号機。
別府鉄道の機関車にも似ている気がする。

Photo_10 車庫で休んでいるのは101号機関車。
小さく見えるがDMH17を搭載した本格的な機関車だ。

Photo_12 貨物列車が岡南元町付近の踏切を通過する。
国鉄貨車も懐かしい。

Photo_13 キハ1003が快走する。

既におぼろげになりつつある記憶の一部ではある。

なお、キハ1003は廃止後、紀州鉄道に流れていき、改造されて印象が少し変った。けれども、一度も営業運転されなかったのは周知のとおりだ。

2009年8月20日 (木)

「なにわ」と「みやび」

ホームページ中のコンテンツ「国鉄高砂工場」で公開されている写真も含め、「サロンカーなにわ」「お座敷客車「みやび」の二つの写真を改めてここで公開していこうと思う。

このブログでも「サロンカーなにわ」それに「みやび」のエントリーで過去に書いているので合わせてごらんいただきたいと思う。

まずは「サロンカーなにわ」から。

Photo 改造中の姿。

14系客車スハフの前後を反転させ、便所、洗面所を撤去してそこに展望室を作る。

もっとも、反転とは言っても編成の前後を入れ替えるだけで、客車の向きを変えたわけではない。

Photo_2 完成した展望車の車内。

非常にシンプルで座席定員も少ない。

Photo_3 展望車のビュッフェ。

古典的な喫茶店のよう。

Photo_4 展望車の外観。

連結側の妻面。

半流線型の妻面を切妻に改造、編成で違和感が無いように配慮されていた。

Photo_5 展望車の全景。

Photo_6 工事開始第1号車の車内。

国鉄としては思い切ったつくりではある。

天井右側、斜めになっている部分は暖房装置。

Photo_7 第1号車完成。

高砂工場塗装職場にて。

塗装は徹底的に磨き出しされた。

Photo_8 完成、プレス公開。

Photo_9 東加古川ー加古川間を行く完成記念、公開試運転列車。

Photo_10 こちらはついでに・・

同じ時期に東京で完成した「サロンエクスプレス東京」

安土駅付近にて。

ここからは「みやび」だ。

高砂工場での「なにわ」スタッフによる工事で、場所は移転しても高砂最後の仕事とも言える。

Photo_11 工事中の「みやび」車内。

格子天井、引き違いの障子、掘りごたつ式の座席、常時使える通路など従来のお座敷客車とは一線を画すものだった。

Photo_12 掘りごたつ式座席テーブルにある小型モニター。

これまでの大型モニターから各自で調節できるモニターに変更された。

Photo_13 カラオケのコントローラー。

当時最新の機器が導入された。

Photo_14 仕切部分。

赤いふすまはなにやら遊郭を思わせる。

全体に高級料亭の雰囲気でまとめたそうだ。

Photo_15 引き違いの障子、14系の面影を残す窓。

窓の内側はFRPのカバー。

障子は全開できない。

Photo_16 いったんこの状態で完成した。

ただし、まだホロが取り付けられている。

Photo_17 ホロは撤去、埋め込みされた完成直前の姿。

Photo_18 完成した「みやび」

塗装はグレーに茶色、国鉄117系と似た雰囲気だったように思う。