さて、体験を書いているうちに鉄道ブログらしく当時の実見した記憶や鉄道関係の友人から伝え聞いた話も残しておきたいと思う。
国鉄時代の話から少し外れるが今回だけお付き合いいただきたい。
震災のような大被害ではまずは人命救助や生活の再建が最優先であり、その場その場での鉄道の運用変更ごときは大した話題ではなく、またこうして記すべきものでもないのかもしれない。
ただ、やはり僕は鉄道ファンであり、それは大災害の時であっても変わらないわけで、視線は自然に鉄道に注がれる。
ただし、当時の僕は神戸の鉄道が完全に復興するまで趣味の写真は撮影しない(もちろん、仕事における記録写真やポートレートなどは撮影しているが)と決めたので、画像は一切ないことをご承知いただきたい。
*神戸市営地下鉄
震災翌日から徐行、一部単線運転ながら西神中央ー板宿間で運行を再開してくれた。
車庫への入庫線をオーバークロスする名谷高架橋が危険な状態だったため、学園都市と名谷の間で単線運転、伊川谷高架橋では架線柱が土台ごと崩落する被害もあったが、これは応急復旧の形で整備されていた。
電車はすべて名谷駅乗り換えで、名谷から板宿の間は複線で20分ごと。
ただし、電車は新長田駅構内まで進んで折り返ししていた。
震災前には「快速」が走っていたが、これは震災後は運休。
その後、正式に廃止された。
全線復旧は意外に早く、2月16日から。
ただし、新長田、上沢、三宮は通過運転で、始発を繰り下げ、終発を繰り上げて夜間工事の時間帯を確保していた。
上沢駅は道路ごと崩壊した神戸高速大開駅至近の位置にあり、駅の前後では線路間の柱が無残に折れ、それを鉄骨で支えて仮復旧していた。
3月16日には新長田と三宮、3月21日には上沢も復旧したが、三宮など、しばらくはあちらこちらで柱が増やされ、通路が閉鎖された様相を呈していた。
神戸市営地下鉄は神戸市民のまさに生命線であり、これの迅速な復旧がどれだけ市民生活の復興を助けたか。
感謝しても感謝しきれない。
*山陽電鉄
震災が起きたその瞬間、崩壊した神戸高速大開駅をまさに、山陽電鉄の特急5000系6連が通過するところだった。
この列車は東二見発阪急三宮行きだ。
幸いにも列車通過直後に駅が崩壊、一部脱線台車があり、パンダグラフも壊れたそうだが、電車そのものは難を逃れた。
この電車がほかに2編成、神戸高速に取り残された電車とともに神戸高速新開地と阪神西灘の間で神戸高速の復旧まで活躍することになる。
震災翌々日には、いまだ板宿駅当方で3000系4連が放置されていた。
ロングシートをはずして乗客が脱出したのだろう、その電車の周囲には座席が散乱していた。
国道2号からみる須磨浦公園付近の築堤があちらこちらで崩壊している惨状、それに塩屋駅が完全に崩壊している状況は、山陽電車のファンであることを自認する僕にはつらかった。
代替バスもJR復旧後にようやく垂水から板宿まで走り始めたような状態で、明石以西の復旧や特急の運転再開は早かったものの、JRの神戸開通後は大勢に影響のない状態だった。
垂水から板宿へ行く際に何度もこの代替バスを利用したが、いつも閑散としていた。
地下工事を進めていた東須磨ー西代間は地上線をそのまま廃止・・地下線の工事を急いだ。
この地下新線も相当な影響を受けたようで、駅の線路間の柱などは横幅の広いものにされている。
塩屋駅はとりあえずは仮説で復旧・・今の駅の東方に設置された。
今見るとこんなところにホームを作ったのが信じられないような場所である。
*阪神電鉄
1月26日に早くも神戸市内、青木(おうぎ)駅まで乗り入れた阪神は、東から神戸に入ったトップバッターだ。
そして、都心部においても2月1日から仮復旧の形で三宮と高速神戸の間を再開してくれた。
この時期に、阪神三宮駅1番ホームに留置していたジェットカー5000系4連は、ひどく壊れていて、とくにすべてのドアが腰のあたりで大きく折れるように曲がっている様子は辛かった。
国道43号を代替バスが走り始めたころ、石屋川車庫の崩壊により、運び出された被災車両がこの道路わきに並べられていたし、いったん高架橋を撤去した御影駅西方では線路が更地になっていて、復旧の前途多難を感じさせたものだ。
代替バスは国道43号にノンストップ便を、国道2号に各駅停車便を走らせたが、このために代替バス運行期間中、国道バスは運休になってしまった。
ノンストップ便はチャーターした観光バスが中心、各駅停車便は普段は国道を走っている阪神バスが中心だった。
ようやく代替バスの運行も落ち着きを見せ始めたころ、阪神は早朝に脱線事故を起こした。
これは線路上を回送可能と判断された電車を回送中に、やはり相当痛んでいたのか、突然脱線したもので、この朝は代替バスが相当混乱した。
このこと自体、当時の阪神の苦悩を物語っているように思う。
青木開通時、梅田を出る電車の行き先表示はすべて「御影」になっていた。
御影に早く行きたい!
それは阪神全社員の思いだったのだろう。
当初、特急は運休し急行のみ、車両の復旧とともに特急の運転本数が増えてきた。
JR、阪急、阪神の中では阪神が一番復旧が遅れ、6月の下旬になってしまったが、個人的にはあの更地をよくぞ復旧したものだと感嘆の思いである。
*阪急電鉄
西宮北口と夙川の間の高架橋が倒壊したために、阪神間3社の中で神戸市内へ直通できるのが一番最後になったのが阪急だ。
このほか、岡本駅西方の擁癖崩壊、今津線への新幹線高架の落下、灘区での橋梁の落下、伊丹駅倒壊、そして何より、三宮のシンボルだった阪急ビルの被災。
電車はかの神戸線チョッパー&VVVF試験車2200系が今津線で被災、伊丹駅は電車を乗せたまま崩壊し、高架下では死者も出た。
しかし、地上線で復旧が早かった御影ー王子公園間を2月13日に復旧してくれたおかげで、JR、あるいは阪神と結んで、神戸ー大阪間を鉄道のみで行き来できるようにしてくれたことは感謝にたえない。
メンテナンス面での都合もあろうが、阪急はこの区間に当時最新鋭の8000系車両を陸送して投入・・
車両の入線にあたっては、かつての上筒井支線の名残の保線用地を活用したのは何とも不思議な気がする。
御影駅はキャパシティの小さなローカル駅だが、乗客が激増して捌ききれなくなるとすぐに、線路を1線にして使わない線路の上に仮設ホームを作り、乗降できるスペースを確保してくれたり、臨時改札を設けたりと、対応の早さが目立った。
しかし、阪急の大阪側の入り口である西宮北口は神戸からあまりにも遠く、代替バスも国道43号なら復興車両とバスのみでスムーズな運行が可能だが、そこから離れる区間が長く、大阪への所要時間ではJR、阪神に及ばなかった。
復旧工事は徹底を極め、高架橋や築堤は作り直した。
こういったことが、震災後の阪急の経営悪化に結びついたことは否定できず、大災害後の復旧の難しさを浮き彫りにしたようにも思う。
神戸高速線にも8000系トップナンバーだったと思うが、これが取り残され、三宮駅西方の高架橋が大きく破損していたので、しばらくはこの電車が花隈と新開地の間を往復していた。
三宮の阪急ビルは震災直後に取り壊しが決定され、優雅な昭和初期の建築物が姿を消した。
同じ時期の阪神ビル(そごう)が被害を受けながらも修繕され、今も三宮の看板として君臨しているのをみると複雑な思いだ。
*神戸電鉄
湊川と長田の間のトンネルが危険な状態にまで被災するという、前代未聞の被害を受けた神戸電鉄だが、鈴蘭台から三田、粟生方面は一部築堤に地盤が緩んだ個所があり、徐行運転をしながらでも復旧は早かった。
1月19日にはこの区間が開通し、北神急行と連絡して都心へ結ぶルートができた。
さらに1月21日には福知山線の復旧に伴い、大阪から三田回りで神戸都心へ行くルートができた。
神戸電鉄に多くの乗客が殺到(僕もその一人だが)、単線区間もあり、15分ヘッドがやっとの三田線の混雑はすさまじい状況だった。
このころ、神戸電鉄は北神急行へのう回路の利便性を図るために、鈴蘭台ー谷上間で北鈴蘭台のみ停車の速達列車を運行していた。
2月7日に長田まで開通。
ここと湊川を結ぶ代替バスを運行開始したけれど、渋滞にのまれ、思うように走れなかったとも聞く。
この段階で北神急行への振り替え輸送を中止したのではなかったかと記憶しているが・・
6月下旬に難儀を極めたトンネルの復旧工事が終わり、全線で開通。
しかし、この震災が神戸電鉄の経営悪化の要因の一つではなかったかと・・
今になれば思う。
*JR西日本
震災復旧はJRの底力を見せつけた。
東から芦屋まで開通したのは1月25日。
もちろん、この時僕が芦屋に行けるはずもないが、大阪通勤時に見た芦屋は、駅舎の一部使用停止、ホーム上屋の全面撤去と仮説上屋の設置、という状況だった。
西から須磨へは1月23日、神戸へは1月30日に開通。
須磨以西で舞子付近まで何本もの電車や貨物列車が停止したまま放置していたのを見ているが、脱線はなかった由、東側でシュプール号が脱線したそうだが、高架崩壊の六甲道に列車がいなかったのは不幸中の幸いか。
さて、須磨から東がひどい状況で、この状態で開業にこぎつけたことに、国鉄時代から続く鉄道魂を見たような思いがした。
今の海浜公園駅あたりに電車線から列車線への渡り線を設け、上り列車は一番北側の列車線を通過、阪神高速の橋脚が崩れ、橋桁が落ちてきている鷹取駅西方ではこの橋桁を鉄骨で支えて、いたが、その高さがようやく下り線の架線と接しない程度で、非常に不安に思ったものだ。
鷹取駅では上り線は鷹取工場すぐわきに仮設ホームを設け、下り線は本来の上り線に仮設ホームを設け、列車線を使う形。
開通初日には操車場の車両、20系客車や12系客車が脱線転覆して営業列車に腹を見せるというまるで映画のような状況。
まずは何より営業列車を走らせ、他はそのあとで・・という方針だったようだが、実際に現場を見ると鉄道マンたちの必死の思いを感じ、涙が出た。
いくら僕が元国鉄マンで、いろいろな状況を見てきたとは言っても、これほど大量の車両がひっくり返っているのを見るのは初めてなのだ。
新長田駅が倒壊しているので、ここは通過扱いだったが、その駅の下を複線で走るために、和田岬線と鷹取操車場を結ぶ連絡線を急遽、電化して列車を走らせる。
さらに、兵庫駅手前で上りは電車線の下りを、下りは列車線の下りを使って複々線のうち、南半分だけで営業。
信号システムや渡り線の設置だけでも大変な工事なのにと思う。
さらにさらに、上りの朝ラッシュ時は快速をすべて各駅停車で運転する必要から快速が通過する駅をすべて12両に応急対応。
そして、不足する輸送力を補うために、本来7連の201系を一部バラして・・
6連2本で12連にして快速用に。
8連を2本作って輸送力アップに・・
さらに、引退したはずの103系電車を大阪や広島から持ってきて応急に使う。
矢継ぎ早の対策は利用者からみれば頼もしい限りだった。
もちろん、JR社員も非常に多くの人が被災していた。
避難所から通勤している人もいたし、自分や家族が被災しているのに仕事を優先、神戸市内では水や食料の確保もままならぬ状況で、鉄道マンを支えたのは使命感ではなかったか。
3月には新長田も仮説で復旧、本来の電車線での運行が再開された。
三ノ宮駅は2月20日に仮復旧したが、駅舎西側は使用停止して交通センタービルの解体工事中。
灘駅だけは電車線を使ってその先の操車場で列車の折り返しをしていた。
電車線復旧後に西側でも新快速が走り始めた。
最初は30分ヘッド、長く通過列車のなかった須磨駅や垂水駅ではこのためにずいぶん気を使ったようだ。
4月1日に復旧後は震災特需の様相を見せ、手持ちの車両を大放出して電車の運行をしている様子がうかがえた。
新快速電車は震災復旧時に臨時の形で増発されたが、これが結局、今の状態につながっている。
当初は車両不足から117系や113系の新快速も運転された。
117系のものはその後も長期にわたって運転されていたように思う。
時には当時の福知山線快速用に改造されたセミクロス編成も新快速運用に入っていた。
代替バスも灘開通後は独特の運用法で、5~6台に一度に乗客を乗せ、同時に出発させる・・
これを数分ごとに繰り返すやり方でラッシュ輸送を乗り切った。
バスの車種による区別はなされず、2階建てのデラックスバスに乗れる時もあれば、九州から応援の一般型バスに乗る日もある。
一般型バスの場合、立ち席があるので「立つことを承知」すれば列からはみ出して飛び乗らせてもくれた。
灘駅は駅の南側からバスに乗ったが、乗るときは駅西方のガードをくぐって乗り場に行かねばならなかった。
住吉駅では国道2号がバス乗り場だった。
歩道上で乗客の整理をし、切符を販売しているその多くの人が新幹線の車掌さんだと聞いた。
普段は快適な列車の中の仕事なのに、寒い中、雨風の吹き付ける中、気の毒に思えた。
新幹線はこの期間に使わなかったから詳しくは知らない。
ただ、妻の実家近く、神戸市西区内で周囲の建物が被害がないか、あっても一部損壊程度のところで新幹線の高架が大きく崩れていた。
橋脚が崩れ、橋桁が川に落ち、線路がぶら下がっていた。
他の高架橋もかなり傷んでいたが、これらはコンクリートで固めたような感じで修理してしまった。
今、その上を時速300キロで「のぞみ」が走る。
あの震災から本当に15年も経ったのか・・あるいは本当に震災があったのか・・
昨今のJRの華やかさを見るにつけ、ふと出る感慨でもある。
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