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2012年1月23日 (月)

国鉄鷹取工場のネガフィルムから

僕にはどうも、大事だと思うものを大事にしすぎてわからなくなる癖があるようで、鷹取工場のネガもようやく2本だけ見つけることが出来た。

本当はもう1本、鉄道学園鷹取分所の頃のネガがあるはずで、それはまた見つかったときか、あるいは写真プリントからのスキャンでお見せできると思う。
とりあえず、今回は鷹取工場の第1回目だ。

Photo まず、平成に入って動態復元された「義経」の写真。

すでにJRとなった後だが、「花と緑の博覧会」で運転されるために復元されたもの。
この復元にあわせて工場公開も実施された。
「義経」は僕が学園生の頃は工場正門近くで静態保存されていて、年に数度、これの車体にワックスをかけるのは工作一科生の仕事だった。
なお、工場内の学園分所にはタンク機関車「若鷹号」も保管されていた。

Photo_2 このときに撮影した機関車職場の様子。
EF65、EF58、DD51、DD13といった当時の国鉄主力機関車が並んでいる。

Ef58 展示用に並べられているEF58の台車。
大型の電気機関車で、幹線用・・その足回りを見られる数少ないチャンスだった。

Ef5848 それでは昭和59年ごろの鷹取工場でのネガから。
EF5848の車体の様子。

電気機関車の場合、車体補修といっても腐食部分の手当てくらいで、十分用が足りてしまう。
それが機関車を旅客車より長寿命にさせている遠因かもしれない。

C57 山口線C571の全般検査の様子。
蒸気機関車の修繕設備は長野工場に残っているものを持ってきた由。
鷹取工場廃止後は梅小路に移設された。

C57_2 C57のキャブの様子。
この写真を撮影したときから既に30年近く・・
機関車の寿命の長さに驚く。
もっとも、その裏には現場での必死の取り組みがあるわけだ。

C57_3 C57を後ろから見た様子。
テンダーを外したキャブをバックから見られることなど、めったにない幸運かもしれない。
ただし、当時の僕がそれを幸運だと思っていたかは別。

201000 貨車職場改め客貨車職場における20系ナハネ20。
よく見ると、1000台の客用扉改造車だが、車端ダンパーはこちら側はついたまま。
つまり。こちら側はおなじ20系との連結側。

2010001 そのナハネ20の反対側。
国鉄部内の定めではこちらが1位側(つまり前です)。
貫通口が12系にあわせて狭められて、車端ダンパーが撤去されている。
12系との連結はこちら側であるということ。

21 ナロネ21。
多分「銀河」用か。
なんとも言えずに落ち着いた、好きな車両の一つ。

今、鷹取工場跡は町になってしまった。
かの阪神淡路大震災で工場機能も停止したが、それでも応急復旧させ、なんとか、その後の需要増大を乗り切った。

結局は工場機能を網干に移転新築されてしまうのだが、明治期以来の歴史ある鉄道工場であったわけで、せめて現地に車両の一つも保存しておいて欲しかったと言うのはこれは・・ファンの戯言だろうか。

国鉄の名門、鷹取が消えて何年になるだろう。

2000年に最後の車両を送り出し、あれから12年、時の流れは速いものである。

岡山電気軌道・・山椒は小粒でも・・(1.23追記)

僕が岡山電気軌道=岡電に行った最初は昭和50年のダイヤ改正直前だと思う。
そのとき、駅前で3000形電車を見て、乗りたいと思ったものの、時間的な問題もあり、後日再訪を期したように思う。

今、アルバムに残る写真は昭和54年あたりからのもので、この頃から本格的に訪問していたようだ。

関西、それも兵庫の地からは比較的近く、訪れやすい路面電車だったはずだが、いつでも行けるという安心感からか・・なかなか足を向けていない。
今思えば申し訳ない限りだ。
しかし、僅か4.7キロの路線延長であるのに、その経営は積極的で、路面電車受難の昭和50年代にも冷房つき車体新造車を次々と作り上げていった。
まさに、山椒は小粒でもピリリと辛い・・の通りだと思う。
歴史は古く、開業は明治45年と言うから、関西大手私鉄各社の開業と比べても時期的に遜色はない。

その岡電の写真から。
30083010 その当時主力の3000形、3008と3010が東山電停で並ぶ様子。
この電車は東武日光軌道線からの譲受車で、昭和28年、日光軌道線小型車の置き換え用として誕生したものの、同線の廃止により僅か15年ほどで廃車され、当時、小型車量ばかりで輸送力増強を必要としていた岡電に譲渡されたもの。

3007 同じく3000形3007が清輝橋終点で折り返しの様子。
昭和50年代とはいえ、この頃でも十分、新しさを感じる車体デザインだった。

3005 カメラ屋さんの広告電車は3005、まだカメラ屋さんの景気が良い頃。
昼間に来ると走っているのは3000形ばかりだった。

岡電の大きな特徴は背の高いパンタグラフ・・錘の作用でパンタを上下させる。

20012002 車庫を覗くと呉市電からの2000形が2両、停まっている。
3000形に雰囲気は似ているが、少しデザインが大人しい気がする。

当時、岡電には秋田市電や大分交通からの譲渡車もあったはずだが、見ていない。

2601 さらに後日の訪問で、3000形以外の電車も走行シーンを見ることが出来た。
呉市電からの2600形2601号。

2601_2 その電車のカラー画像。
呉市電の電車はここと松山の伊予鉄道、仙台市電に譲渡されていた。

2001 2000形2001号の走行シーン。
なんとも優しく、穏やかな表情の電車だ。

3802 柳川の分岐点における3800形3802号。
名古屋市電からやってきた電車だ。

この電車は名古屋時代のZパンタ。

3802_2 その電車の門田屋敷付近での様子。
名古屋市電1500形がその前身。

7101 さて、昭和55年から車体を新造した冷房つき、軽快電車スタイルの電車が登場した。
これは7101号、清輝橋近くの道路工事で歩道に寄せた線路を走っていた頃。

7102 こちらは7102号。
岡山城をバックに走る。

7401 その橋梁は道路中央の架線柱が特徴。
橋を渡るのは7401号。

僕が岡電を訪問し始めた頃、まだまだ日本には路面電車が今よりたくさんあって、京都市電、西鉄の福岡市内線・北九州線といった大御所も健在だった。

その中で風が吹けば飛ぶのではないかとさえ思われるような、僅か4.7キロのささやかな路面電車が実によく健闘し、今や数少ない黒字基調の路線ともなっているだけでなく、両備グループとしてバス事業とあわせた豊富な交通事業経営のノウハウで、廃止が検討されている各地の鉄軌道にも積極的に経営参加を申し入れ、ついには和歌山県の貴志川線の廃止に際しての事業引き受け先にも選ばれ、「いちご電車」「たま電車」などのアイディアや、列車の増発など積極的な利便性向上で乗客数が持ち直すほどの実績も上げるに至っている。

Photo その岡電、一昨年夏に撮影した写真から。
和歌山電鉄の親会社であり、向こうのキャラクターを岡山にも持ってきたのが・・「たま電車」
7101号。

Kuro 僅かに残る3000形電車を徹底的に更新して、かえってクラシックモダンを表現した「くろ電車」
3007号。

Momo そして路面電車新時代を感じさせる新車。
超低床連接車MOMO。これら電車は岡山出身でJR九州のデザインでも知られるデザイナー水戸岡鋭治氏によるデザインだそうだ。

日本一路線長の短い路面電車、岡電が今後とも山椒は小粒・・の意気込みで日本の鉄道を、路面電車を、そして日本の都市交通を変革していくその原動力であることを心より祈る。

1002 写真ネガを探していて、岡山電気軌道の電車がもう一点出てきた。

なんと、元秋田市電の1002号。

1002_2 その電車が旭川を渡る様子。

自転車やクルマの風情が懐かしい。

この写真を撮影したとき、元呉市電の2600形と区別がつかなかったのか、プリントはせずネガには厳然と写っていた。

2012年1月 5日 (木)

117系運行開始から32年

1172 記録によると、昭和55年1月22日が117系電車の運行初日だったようだ。
この日、平日だったが僕は年休を取り、友人とこの117系電車に乗りに行った。

既に前年の9月には落成していた電車だったが、全くの新系列と言うこともあり、そこからさまざまなテストや乗務員訓練などを経て、この日に運行開始となったものだ。

確か、記憶では大阪駅9時15分の姫路行き新快速電車がその記念すべき最初の列車だったはずだ。

大阪駅には報道各社も来ていて、国鉄がはじめて関西地区用にアレンジした新車への期待の大きさが伝わってくる。
その頃、阪急は名車6300系がそろい、十三・大宮ノンストップ、梅田・河原町38分運転。
京阪はこれまた名車3000系の時代で、清潔感溢れる車内にカラーテレビも備えた私鉄界最高のグレードを持つ特別料金不要の特急で、京橋・七条ノンストップ、淀屋橋・三条45分運転。

これに対抗する国鉄は、圧倒的な線形の良さを生かして、大阪・京都29分、大阪・三宮25分の153系新快速が気を吐いていたけれど、デッキつきの車体に直角椅子が並ぶ固定クロスシート・・
確かに急行型で、乗り心地はよほど調子の悪い車両以外では良好だったけれど、イメージが当時としても既に古すぎた。
いや、実際に酷使に耐えた車体は老朽化し、「古さ」が顕著になっていたのだ。

製造22年で老朽化というのは昨今のJR西日本の電車から見れば、考えられないほど早い。
それだけ車体や機器類の製造技術も進んでいなかったのだろうし、メンテナンスの技術も今ほどではなかったのかもしれない。

新快速に走り出した117系は国鉄近郊型としては破格のサービスで、転換クロスシート、空気バネ台車を備え、車内の内装も国鉄としては非常に気を配った「インテリア」と呼べる最初のものだったように思う。
153系の置き換え車種としては3系列、関東の185系、広島の115系3000台、それに関西の117系となったわけで、共通点はいずれも転換クロスを採用したこと。
その中で、僕には117系が一歩抜きん出た出来映えに思える。

初物好きの鉄道ファンや沿線利用客、それに報道関係者を多数乗せた117系処女運行列車は大阪駅を発車。
如何にも国鉄電車という発車の感じで、静かで揺れない阪急や京阪とはやはり違うのだと思ったものだ。

走り出すと乗り心地はまさに165系のそれで、同じDT32系の台車にMT54と言う組み合わせだから当然だが、これはこれで国鉄の良さも感じる。
座席は近郊型とは思えぬほど幅もピッチもゆったりしていて、当時のリクライニング機構のない485系初期車あたりより座り心地も良く、この点では平行私鉄を凌駕し、国鉄の勝ちだった。
もっとも、阪急・京阪の段付モケットは見ただけでも豪華で、座席生地の色合いが普通列車標準のブルーから茶色に変わっただけでは豪華さは感じない。
座席の枕には、ビニールレザーのクリーム色枕カバーまでついた。

走っていて、揺れで共振するのか、時折、荷棚が前後に揺れる。

今とは比べ物にならない、ゆったりとした走りの新快速は、個人的に電車の速度としてはちょうど良い感じで、この電車を一気に好きになったものだ。
好きだった153系ブルーライナーの引退は辛いが、117系と言う素晴らしい後輩の登場はそれを上回る喜びも与えてくれた。

1171 さて、大阪駅から1時間20分ほどかかった姫路駅で、折り返し、転線する時の様子。
きりりとした表情はこれまでの国鉄電車になかった独特の風貌。

曲面ガラスの製造技術の進化で、車体の傾斜に合わせたガラスを製作できるようになり、それが、これまでこの手の車両の「垂れ目」的な雰囲気を一掃できた要因だったとか。

カラーリングはクリームと茶色で、国鉄の標準にはなかった色調。
122452001 実は、ここに吹田工場で保管されるモハ52の写真を入れるが、このモハ52のリバイバル的な意味合いを込めていたという。

117 鉄道ファンが見守る中で転線する117系。
今ほどには大騒ぎにならなかった頃。
鉄道ファンも国鉄も大らかだった頃だ。

117_7 初日の117系の車内。
大型のつり広告が大鉄局の意地を見せているように思う。

阪急・京阪は特急車両に限り、車内の中つり広告を設けなかったが、さすがに国鉄ではそういう例外は許されない。
広告収入も重要な国鉄の収入なのだ。
平天井、グローブつきの蛍光灯、妻面の木目調の化粧板、客扉もステンレス生地そのままではなく、化粧板を貼った格別なもの。
この点では特急型も凌駕していた。

117_3 車体妻部の銘板。
日本国有鉄道と川崎重工の銘。
記念すべき第一号の車両では、国鉄担当者がメーカーに赴き、台枠の強度を確認、結果、台枠の強度を高めるために現場で部材を追加するなどしたと言う。
それに腐食しやすいところでは最初からステンレスを用い、当時の私鉄の車両技術をかなりの部分で取り入れたとも聞く。

117_4 京都駅までこの電車に乗って、新型新快速の、それでも国鉄らしい乗り心地を堪能したものだ。
京都駅で跨線橋からみた117系電車の屋根。

通風器は存在せず、当時の新型気動車と同じ新鮮外気導入装置が設けられている。
流線型のデザインは、それこそどこから見ても美しい。

ヘッドライト回りのケーシングも当初はアクリルカバーのつもりだったのが、ステンレスの帯に変更された由。

阪急6300系の強烈な印象が大鉄局幹部にあったのかもしれない。

117_8 221系の登場で新快速の表舞台から遠ざかっていった117系だが、阪神淡路大震災直後の需要逼迫の時期に、一度神戸方面の新快速に復活したことがある。

写真は既出だがそのときのもの。この運用は223系が増備されるまで続いた。

今月で運行開始から丸32年を迎える117系電車。
その今の様子をここで少し。

117_5 紀勢線・和歌山線で走っている4両編成、色合いはオーシャンカラーと呼ばれる青基調の独特なもの。
和歌山駅で昨夏撮影。

0104117 こちらは日の暮れた和歌山線五条駅で折り返す117系。
この編成は車内未改造の編成だ。

0104117321 そして新快速時代を彷彿とさせるのが湖西線での117系。
京都駅での停車の様子は、この電車全盛時を思わせる。

0104117_2 琵琶湖を望む志賀駅に入線する117系。
京都で一般運用につく117系は、大半が福知山線快速時代にセミクロス改造を受けているが、外観塗装が旧に復したおかげで117系のプロポーションの良さを実感できる。

0104117_3 117系の車内。
これはオーシャンカラー編成の原型タイプだ。
枕カバーが221系と同じイメージのものに変更されている。

117_6 こちらはJR東海所属車の車内。
枕カバーのイメージとしてはこちらのほうが原型に近い。

117100 こちらは100番台の車内。
下降窓を採用して、内装の雰囲気もすっきりした。
化粧板が光沢となった。
これは、艶消し化粧板の劣化やメンテナンスを心配する声があってのことだと思うが、どちらも今に至るまで化粧板の劣化は目立っていない。

0104 近江今津を出て京都へ向かう117系。
編成中に二丁パンタのモハがあるが、これは湖西・草津線での霜取りのため。

117系は永く全車両が健在だったが。、ついに東海の車両から廃車が始まっている。
出来るなら飯田線や中央西線山間部で専属車両として使えば乗客の評判も良いだろうにと思うが、JR東海は国鉄型車両の全廃を打ち出していて、すでに博物館入りした車両もあり、余命はそう長くないだろう。

JR西日本でも関西に残って原色で活躍する車両は少なく、岡山・下関へ転じて活躍している車両が多い。
僕の好きな100台はほとんどが下関に居るそうだ。
会いに行きたいと思うが、下関は今の僕には遠い。

0104117_4 五条駅で発車を待つ117系のサイド。
こうしてみても、美しい車両だとつくづく思う。
国鉄末期の傑作に違いない117系電車の少しでも長い活躍を心から祈る。

2011年12月22日 (木)

国鉄80系電車

国鉄が戦後すぐに、速く快適な長距離用の電車を目指して作り上げたのがこの系列だ。
客車の基本レイアウトを採用したからか、車体は電車でありながら出入り台が車端にあって、車内にはずらりとクロスシートが並ぶ。
ただし、通勤兼用と言うことは考えられていたようで、座席は当時のモハ51なみの「近郊型」サイズだった。

湘南型と呼ばれ、最初は東海道本線東京口の客車列車を置き換え、後に徐々に優等列車にも進出したけれど、近郊型としてはやがて111系、後に113系、そして優等列車用としては153系の登場により、早い時期から地方へ転出してローカル運用に徹した電車だと言えるかもしれない。

この電車は僕の幼少期のころ、京阪神地区において国鉄快速電車の看板として走っていたこともあり、僕にとっては憧れの電車でもあったけれど、僕が鉄道の写真を撮影し始めたのが昭和49年、80系電車の姫路地区からの撤退が昭和53年だから、僅かにその最後の時期に「間に合った」と言う印象だ。

昭和50年当時、すでに京阪神の快速電車は113系への置き換えが完了していて、80系は姫路より西側に走っていた。
ただし、朝の下り、深夜の上り各1本が西明石発着で、地元宝殿駅でもその様子を見ることができた。

80 駅構内における下りの岡山行き。
クハが全金300番台。

80_2 駅東側の踏み切り付近における下りの岡山行き。
こちらは二次型だ。

80_3 一次型は半流線型3枚窓だったが、戦前の半流線型が幌の効果もあり電車らしい、非常にバランスのとれたようなデザインだったのに対し、80系のクハ86では貫通扉がなく、なんだかのっぺりとした間の抜けた顔立ちになってしまった。
これは名古屋駅での一次型クハを先頭にした東海道ローカル。

8080 車内は客車的で、なぜに「弾丸列車」用には3ドアセミクロスを提唱しておきながら、80系では客車と同じ構想の2ドアクロスになったのか・・
しかも、通勤兼用として車端にのみ2~3人掛けのロングシートとつり革、それに座席が長距離にはきつい狭く小さなものだった。

この点は後に改良されるが、そうなると尚更に通勤には使いにくいわけ。

8085 こちらは元2等、サロ85を改造したクハ85の車内。
ご婦人の表情もわかるが、すでに30年以上前の写真であり、ご勘弁いただきたい。
撮影したのは赤穂線内だと思う。

8086200 姫路駅でのクハ86二次型。
流線型と側面の古い客車のイメージがアンバランスな感じがする。

8086300 姫路駅でのクハ86最終300番台。
軽量客車風の側面となり、正面デザインとも釣り合いが取れる好デザインとなった。

80_4 雨の姫路駅、下り方のクハ86300番台を先頭にした列車。
当時の姫路駅周辺の雰囲気もまた、思い出深い。

80115 後継115系と並んだ80系電車。
これも姫路駅にて。
115系は当初は東京、東北線高崎線のお古が投入されたが、後に新車の冷房つきとなった。

8086 80系電車の運転台。
貫通扉がないので運転室は広々としていて、評判は良かった由。
ただし、夏には大きな窓から陽射しが差し込み、まるで金魚鉢のようで、非常に暑かったとか・・

80_5 赤穂線播州赤穂だと思うが発車風景。
駅員と車掌のやり取りも懐かしい。

80_6 同じ駅で、ホームから離れる80系電車。
80系の流線型は、どうしてもおでこのあたり、汚れがついてしまう。
特にトンネルのある区間だと尚更の由。

80_7 備前片上付近で単線区間を走行する80系電車。
当時から赤穂線はまったりとした走り具合だった。

80_8 備前片上付近、駅構内を行く。
正面2枚窓、金太郎塗りのデザインはこのあと、私鉄で爆発的に流行した。
ただし、関西では少数派で、南海の11001、21001一党、阪神の3011、近鉄の800、神戸の300くらいしか思い浮かばない。
それもそれぞれに湘南型というにはあまりにも個性的で、関東では大手すべてが、こぞってこのデザインを取り入れたことを思うと不思議だ。
しかも、西武や京王はごく最近までこのデザインを取り入れていた。

なお、国鉄では70系とEF58、DD50、キハ15くらいか・・

80_9 既出だが飯田線に最初に入った80系はサハだった。
サハ87001、牛久保にて。
流電モハ52の中間に挟まっていたものだ。

8085_2 豊橋におけるクハ85100番台。
クハ85は当初は二等車サロ85→サハ85からの改造だったが、後にサハ87からの改造も登場した。
103系モードの切妻のデザインは丸みを帯びた80系とは一線を画しているように見える。

80_10 飯田線早瀬付近を走る80系電車。
飯田線には非常に似合っていたこの電車だが、戦前製旧型電車より先に消えてしまった。

80系電車の活躍期間は昭和25年から昭和58年までで、33年になるが今も走っている113,115系電車はそれよりはるかに長い活躍をしている。

出来れば、名車80系電車にも、もっと長い活躍をしてほしかったと思ってしまうのだ。

姫路と岡山の間で2往復走っていた80系快速の、つりかけのモーター音とともに、滑らかな乗り心地を思い出すとき、ふっと、80系電車への子供のころの憧れが蘇る気がする。

(80系電車については以前の記事、「湘南電車一考」もご参照ください。)

2011年12月12日 (月)

名鉄犬山橋と車両たち

昭和59年、名古屋鉄道=名鉄に画期的な新車が登場した。
それまでの通勤汎用タイプ、SRシリーズから大きく進化した初めての有料特急専用車、8800系だ。

何かにつけて名鉄を見に行っていた僕は、友人とともに、この電車を見に行くことにした。
ただ、当時の名鉄は一種混沌とした車両たちが活躍していて、戦前の流線型や戦後の更新車、国鉄へ乗り入れる気動車、ローカル線区の経営改善のためのレールバス、それに何より大好きなパノラマカーをはじめとするSR系列などもあったから、勢い、名鉄に行くときはメニュー過多の状況になってしまう。

850 まず、偶然出会えた名鉄の流線型2種。
こちらは犬山だろうか。
名鉄発足時の西部線用850系。

スマートとはいえないが、独特の風貌は異形の古武士を思わせる。

3400_2 こちらはどこの駅だろう。
ちょっと記憶にないが、八百津線を見たときに撮影しているので新広見=今の新可児あたりだろうか・・
戦前の日本の流線型最高傑作のひとつ、名鉄東部線3400系だ。

こちらはスマートな花武者というところだろうか。

さて、ここからが本題。
犬山橋は大手私鉄の幹線が堂々と道路上を走る稀有な景色が好きだった。
それに、ここを走る列車は速度が低く、大好きな名鉄電車を心ゆくまで眺められたものだ。

2702 犬山橋での列車たち。
まずは旧型電車の車体を更新したHL3700系。
まるでローカル電車のお手本のようなまとまったデザイン。

7000 パノラマカー7500系。
河和行き高速だろうか・・

7000_2 7000系パノラマカーが2列車。
白帯の7000系と一般用7000系とがすれ違う。
もっとも、橋の上での電車のすれ違いは禁止されていたはずで、手前の電車は向こうの電車の通過を待っている状態ではないだろうか。

8000 国鉄乗り入れ気動車8000系。
準急・急行・特急と進化した稀有な車両だ。

88002 これが8800系パノラマDX。
通勤汎用をまったく考えぬ名鉄初の座席指定特急専用車両。

ブルーリボン賞まで受賞した。

8800 車内の様子。
デラックスで、お洒落・・だったけれど、セミコンパートメント座席のリクライニンがごくわずかしかできず、不満に思ったものだ。

さて、この数年後、特急気動車が新しくなったので、眺めに行った。
車両は幾分変わっていて、名鉄の変化もまた楽しかった。
ただ、不思議と犬山橋では天候不順なことが多く、この日も雨が降りしきっていた。

8800_2 8800系は中間に通常のリクライニングシートを配置した新車を挟んで3連になっていた。

1000 座席指定特急は白帯車からパノラマスーパーへ。
1000系全車座席指定特急。

5500 本邦初の本格的通勤冷房車5500系。
まだまだ、この電車が大活躍していたころ。

6000 名鉄が始めて造った本格的通勤電車6000系。
まだセミクロスだったころ。

8500 そして新型の国鉄乗り入れ特急気動車8500系。
なんとも、気動車らしい好ましいデザインだが、案外その寿命が短く、すでに走行シーンを見ることもできないのは残念でならない。
会津鉄道ではなくJR西あたりに買って貰えば良かったかも・・

今年夏に、ひさびさにここを訪れた。
楽しい道路併用橋は、鉄道専用となり、軌道敷のすぐ近くにあった電車ファン御用達の歩道も撤去されて、鉄道の橋梁内には立ち入ることもできないが、それでも、道路橋の脇から鉄道橋を見ることができた。

Photo やってきたのは特急「ミュースカイ」と自由席・指定席併結の2300系「特急」。
ここでパノラマカーや特急気動車を眺めたのが嘘のようだ。

6000_2 ほっとしたのは、6000系が来てくれたとき。
あの時と同じように雨が降る中、名鉄らしい真っ赤な電車がゆっくりと進んでくる。

2300 変わるもの、変わらないもの・・
鉄道趣味とは変化を追い、変化を憂う趣味なのかもしれない。

2011年12月 2日 (金)

宝殿駅周辺の列車たち

今回は僕にとって鉄道ファンとしての生き方を決めてくれた国鉄宝殿前後での列車の写真だ。
宝殿駅そのものについては以前のエントリー「宝殿駅」をご覧戴きたい。
撮影時期は昭和51年から55年頃までの写真だ。

宝殿は日本の地名には珍しくNで終わる発音で、これは駅名ともなった駅南西1キロ強のところにある本邦最高の自然石産地、そして巨石が水に浮かぶ奇景で有名な「石の宝殿」から来ている。
僕は中学時代の大半をこの駅と加古川駅の中間地点にある「加古川市高砂市組合立宝殿中学校」で過ごした。
通学の途上には山陽本線の踏切があり、否が応でもその素質のあった僕は、鉄道ファンとして育っていくことになる。

まず、宝殿駅西方から。
Ef58 曽根駅との中間地点あたり、石の宝殿、竜山をバックに快走するEF58の牽引の団体専用列車。
当時はごくごく普通に見えたこの光景も、今、この場所には姫路バイパスが通り、住宅も増え、ましてEF58など見ることも出来ない・・

Ef581 古レールを上屋の柱に使った宝殿駅上りホームを行くのは・・
なんとEF58のトップナンバー。
古レールの風景が撮りたくてカメラを構えたのだが、まさかトップナンバーが来るとは思わなかった。
この写真は偶然の産物だ。

35190 その列車の横に停車していた貨物列車。
その最後尾、ワフ35190が写っている。
緩急車の独特の風情は鉄道の景色として途絶えるはずもないと・・思っていた頃。

122094 宝殿駅留置線に停まっているのはオハネフ122084。
臨時列車や団体列車の車両がここに留め置かれることが多かったように思う。
このクルマの乗務員室にはベットのシーツも見られ、臨時列車に使われる直前だったのかもしれない。

Ef6621 宝殿駅北側には広い鉄道用地があった。
そこは道路に接していて、誰でも入れる空間だった。
今なら危険行為としてみなされるような写真も当時だからこそ撮影できたしだい。

まず、下り貨物列車。
EF6621。

Photo_5 既出だが深夜の宝殿駅を通過する「鷲羽」

まだまだ在来線での長距離列車が残っていた時代。

110900 こちらも既出だが、宝殿駅に入る普通列車に連結されていたサロ110-900番台。

国鉄最初のステンレスカーも都落ちして当地の普通電車に使われていた。

Ef662 そしてEF662、セカンドナンバーの牽引する上り貨物列車。
EF66はこの形態が最も美しいと思うが如何だろう?

Ef58_2 通過するのは朝方の急行列車だろうか。
EF58牽引の14系夜行急行、「あそ」あたりだろうか。
当時のASA100のカラーフィルムでは如何に開放F値2.8のレンズをもってしてもシャッター速度はどうしても低くなる。

Photo 高砂工場で完成したお座敷客車だろうか。
旧型オールグリーン客車列車が通過していく。

153 フィルムの傷みが目立つが、153系の新快速。
低運転台のクハ153を先頭にした編成だ。
僕は今でも、新快速のデザイン上での最高傑作がこの低運転台クハ153ではないかと思っている。

117 負けていないのが後継車種の117系。
多分、展示会があったその回送列車だろう。
なんともきりりとしてよい表情だ。

80 当時の宝殿には朝と深夜だけ岡山の80系電車が走っていた。
神戸で生まれ育った僕にとって国鉄の快速電車といえばこの系列で、その面影を唯一残した列車だったわけ。
宝殿駅に入る唯一の80系電車。

80_2 その列車の後追い。
早朝のこの列車を見るために早起きして線路際へ。
ここ数年、夏になると「サンライズ」撮影のために早朝に線路際に行く僕だが、その発想の淵源はこの時代にあったのかもしれない。

Ef615 山陽本線の稀少機、EF61が貨物列車を牽引する。
当時、たしかEF61は運用が定まっていて、その列車を狙っていったように思う。

Ef608 宝殿駅側線で退避するのはEF608が牽引する高砂工場への部内輸送列車。
後部には14系座席車、10系寝台車、キハ26か・・の姿も見える。
宝殿駅は夕方4時過ぎの到着だったように思う。

117_2 やや後の時代、橋上化なった宝殿駅を通過する新快速117系。
国鉄最終期の傑作、今見てもデザインの古臭さを感じない電車だ。

82 その列車の前後だろうかキハ82系「はまかぜ」が最後の活躍をしている。
国鉄気動車特急最高峰のデザインだと今でも信じて疑わない。

Ef65108 宝殿から東へ進むと、やがて線路は加古川を渡るための築堤に進む。
ちょうど、日本毛織印南工場のすぐ脇で、当時はまだ、専用線の軌道敷も残っていたように記憶する。
EF65108の牽引する貨物列車が行く。

Photo_2 キハ58系列の上り急行列車が行く。
6連でグリーン車が1両なので「但馬」系統だろうか。

58165 築堤を下から見上げ、通過するのはEF58165の牽引する荷物列車。
キハ58とEF58・・国鉄で何故かメジャーになる不思議な番号、58を持った両者だ。

153_2 その場所を行くクハ153高運転台を先頭にした新快速。
「ブルーライナー」
このデザインも好きで、国鉄の宣伝にはクハ153高運転台が使われていたように思う。

Photo_3 下っていく荷物電車。
クモニ83だろうか。
客車荷物列車と違い、電車の荷電は単行で走ることが多かった。

Photo_4 こちらも下り荷電。
横の工場が日本毛織印南工場。

Eh10 さらに東へ行くと山陽本線は加古川橋梁を通過する。
ちょうど、通過しているのはEH10初期車が牽引する貨物列車。
なお、加古川橋梁についてはこちらもご参照いただきたい。

2011年11月18日 (金)

国鉄高砂工場廃車留置線

今回は高砂工場廃止直前の廃車解体待ちの車両たちだ。

それも少しレアなものも見ていただこうと思う。

26183 まずはキハ26183・・
このクルマは岡山の所属だった。

2876 そのキハ26の前方に押し込まれていたのが和歌山のキロ2876だ。
一見、何の変哲もないキロ28に見えるが、台車が空気バネ台車になっている。
これはキロ27の台車だろうか、それとも特急車両の台車だろうか。

102033 ここからは郵便車だ。
郵政省が全面的にトラック輸送に切り替え、大量の郵便車が余剰となって廃車された。
まずはオユ10から。
標準的な郵便車だったオユ10の非冷房の姿。
オユ102033。

102034  こちらはオユ102034。
この2両でオユ10の両側面をご覧いただけると思う。

102578 冷房改造されたオユ102578。
冷房改造工事はスロ62などと同じ手法、屋根鋼体を丸ごと取り替える工法で行われた。

Photo 同じく冷房改造されたオユ102579。
これもこの2両で両側面をご覧いただけると思う。

10 冷房改造されたオユ10の車内。
特に郵便物の仕分けのための区分室は、風を避ける意味から窓が開かず、冷房化によって作業環境を向上させるしかなかった。

132034_2 次は護送郵便専用、郵袋のまま輸送するためのスユ13。
ネガを拡大して見るとスユ132036と読めたクルマ。

132038 スユ132038。
郵便車でも、スユ13は、関西ではなかなか実際に見る機会がなかったように思う。
これもこの2両で両側面をご覧いただけると思う。

132038_2 同じスユ132038を真横から見た様子。

13 そのスユ13の車内。
郵袋のまま郵便物を積載するために何にもない、がらんとした車内だった。

267_2

キユニ267、ローカル線によく走っていた郵便荷物合造気動車。
姫路の所属だったから播但線で活躍したのだろうか。

267その気動車の内部。
これは郵便区分室。

2612 キハユニ2612と読めるクルマ。
鹿児島・志布志から岡山に転属になり、すぐに廃車になったようだ。

Photo_2 次は救援車。
救援車の役目もほとんどをトラックに奪われてしまう。
岡山のスエ7151。
もとはスハ32系の一員だったようだが、戦争で被災して、戦災復旧客車となり、さらに合造車となり、救援車へ。

Photo_3 糸崎のスエ7121。
こちらは郵便荷物合造車だったのだろうか。

3142 新見のスエ3142。
これは戦災復旧車ではなく、スハ32系をそのまま改造したクルマ。
窓配置がなにやら上等そうな車両の出自をうかがわせる。

Photo_4 救援車の内部。
どの車両か判然とせず、上記3両のいずれとも違うように見える。

Photo_5 こちらは作業員室。
達磨ストーブとゆったりした椅子がある。

251 カニ251。
20系の電源車を24系に組み入れたクルマだ。

25 そのカニ251をカラーでご覧戴こう。
24系に連結して使うのに、何故か塗装は20系時代のままだった。

251_2 既出だがカニ251の屋根。
パンタグラフ跡の通風器がなんとも侘しい。

国鉄はこの時期に郵便・荷物輸送から撤退して、今のような宅配便全盛時代になっていく。

2011年11月14日 (月)

南海線特急、「四国」号1001系から現在の南海線特急を見る。

先日、久しぶりに南海電鉄、南海線特急列車に乗車した。
乗車したのは「サザン」と「ラピートβ」でどちらの列車も非常に素晴らしい乗り心地だったが、天上の意匠を見て、どうしても11001系=1001系のことを思い出してしまう。
残念ながら、1001系の車内の写真は撮影できていないが、懐かしい湘南形流線型の姿を今一度蘇らせるのも悪くはないかもしれない。

なお、僕は小学校高学年時代を沿線の泉大津で過ごした関係で、この電車にはひじょうに強い憧れの感情を持っている。

元々、南海11001系と言えば戦前戦後の大型車、2001系の近代化版で、当初は貫通型で登場、後に湘南形が主流になった。

1001 箱作の海岸を行く下りの「四国」号、この列車は1001系の独壇場で、先頭2両が座席指定、後ろ4両が自由席だった。

1001_2 多分、同じ列車の後追い。
先頭車にパンタグラフが堂々と載る電車らしいイメージに、湘南形としては洗練された小型の下降窓がずらりと並んだ側面、そしてそのスタイルを引き立たせるライトグリーンに鮮やかな濃いグリーンの帯。

1004 サイドビュー。
座席指定の札が挿し込まれている。

1001_3 逆光気味だが、上り「四国」号の全景。
この角度から見る1001系はことのほか美しい。

1001_4盆暮れには臨時の全車座席指定の「四国」号も運転された。
11001系は昇圧により車両数の半数が廃車となり、残りの車両も冷房改造、機器類の大幅な更新により1001系となる。

1001_5 こちらは一般の特急。
全車自由席で、難波と和歌山市の間を結んだ。
1001系は乗り心地が非常によく、転換クロスシートの座席もゆったりしていて、間合い運用の急行で乗れるときはとても嬉しかった。

1001_6 新今宮駅を出て、終点、難波へ向かう「四国」号。
この端正な風貌は、国鉄70系電車と双璧を成す、湘南形マスクの傑作だと信じて疑わない。

同じ系統のデザインでも、今も大井川鉄道、一畑電鉄に残る高野線急行21001系に比べると、さすがに20メートル級大型2ドア車の迫力と言うか、そのスマートさは1001系がダントツだった。

110013008 福井の京福電鉄に走っていた南海11001系初期車、貫通型スタイルの3008号。
経年の新しい11001系は、昭和47年の昇圧時に、1001系への改造がなされない車両の一部を京福電鉄へ譲渡され、活躍していた。
色合いこそ赤系統のツートンだったが、モノクロで撮影すると南海時代のグリーン濃淡を思わせ、なんとも懐かしい気持ちになったものだ。

110610908 1001系が廃車され、新時代の特急「サザン」が走り出してからも26年が経ってしまった。
写真が和歌山市における10000系(新)による「サザン」
初期サザンの機器類には今も1001系の魂が息づいているはずだ。
なお、「サザン」は8両のうち4両が指定席、残り4両がロングシート一般車両を使った自由席の列車で、1001系には存在しなかった指定席と自由席の設備面での格差がある。

1106 その車内。
窓上の読書灯はまさに11001系=1001系の名残か・・

110612101 そしてみさき公園における、最新の12000系(新)による「サザン」。
全体にすっきりしたデザインは、自由席に使われる8000系電車に合わせたのだろうか。

1106_3

その車内。
デラックスではあるが、読書灯は健在。

1106_2そして、今や南海の大看板、関西空港連絡の「ラピート」。
泉佐野駅にて。
この強烈なデザインは、南海の大人しく気品に満ちた電車デザインとは一線を画する気がする。

1106_4 その「ラピート」車内。
スーパーシートの様子。
読書灯もそうだが、それより、天井一列の照明に1001系の面影を見る気がする。

5500 さて、かつては南海には国鉄に直通する急行気動車があって、南海線内では特急扱いだった。

「きのくに」号キハ5501形、国鉄線内で。

できれば、今、折角の「ラピート」や「サザン」を南紀方面に持っていけないだろうかと・・鉄道ヲタクの妄想ではある。

(なお、本ブログでは7101系以前の系列については1を末尾に、それ以後の系列については他社と同じく0を末尾に表現しています)

阪神武庫川線廃線区間の記録

前回、「阪神武庫川線」エントリーの中で、その記事の際は記録が出てこなかった、昭和55年8月に撮影した武庫川線の廃止区間の記録が今頃出てきた。

約束どおりここで公表させていただくことにする。

阪神武庫川線は現在も営業している武庫川駅以南区間のほかに、戦時の物資輸送のための北側、阪神国道を経て国鉄甲子園口駅までの区間が存在した。
戦後もしばらくこの区間は存在したようだが、旅客輸送については武庫川駅以北区間は戦後すぐに休止されている。

戦後も35年を経た昭和55年にまだその痕跡をとどめていたことは驚愕に値するが、もちろん、今となってはこの区間の路線式は住宅地に変貌を遂げてしまっている。

Photo まずは武庫川駅北方の出入庫線より北側を見た様子。
複線の線路が北へ延びるが、線路の中は畑と化していた。

2 もう少し進むと線路は単線になった。
標準軌と狭軌の3線式の軌道のはずだが、この当時は既に普通の軌道になっている。
はてさて、この写真の線路が狭軌なのかどうかは今となっては不明。

Photo_2 そのまま進むと、武庫大橋駅の遺構に行き当たる。
武庫大橋駅は行き違い可能で、ゆったりしたホームを持つ駅だったようだ。

Photo_3武庫大橋駅を川の土手から見る。
この時点まで35年、自然に還ろうとする駅の夢の跡・・

Photo_4 武庫大橋駅の北側、ここに駅舎が出来るはずだったのだろう。
当時、国道2号には阪神国道線が走っていて、この駅が残っていれば、今頃、国道2号と阪神本線を結ぶ要所になっていたかもしれない。

Photo_5 武庫大橋駅、駅舎の残骸だろうか。
この当時の記憶がほとんどなくなっている今、思い出すことも叶わない。

Photo_6 武庫大橋駅からさらに線路は国鉄へ向けてつながっていた。
線路が残っていて、実に昭和30年代まで貨物列車が走っていたそうだ。
ということは、ここは狭軌か・・

Photo_7 甲子園口へ続く軌道敷。
ちょうど113系の快速電車が通過中。

甲子園口は貨物取り扱いがないので、貨物列車は西ノ宮まで走っていた由。

撮影時点から既に30年以上の月日が流れた。
記憶の片隅に僅かに残るこの廃線跡だが、こうしてネガフィルムが出てきたことで、この区間を見たのが真実だったのだと・・
改めて実感もする。

2011年11月10日 (木)

新幹線100・300系引退に寄せて

僕が鉄道ファンであることは幼少時から一貫していて、それが本格的に写真の方向から鉄道ファンとして活動していくのは、国鉄に入社する直前からになるのだけれど、その僕にも過去に数度、鉄道趣味活動からある程度遠ざからざるを得ない時期があった。

その最初の時期、結婚し、家庭を持ち、子育てや生活、それに多忙を極めた写真の仕事で、まったく鉄道趣味人としての活動が出来ない時期・・それが平成に入ってすぐ訪れたわけだ。

子育ても落ち着き、趣味活動というほどではないが、ようやく写真撮影から趣味を再開した頃の、山陽新幹線加古川橋梁でのある日のシーンだ。

300系が「のぞみ」として博多へ乗り入れながら、JR西日本独自開発の500系が世界最速を謳っていた頃だ。
このブログの記事としては非常に新しい時代の記事になるけれども、この時代からもすでに15年の月日が経っている。

0 まずは0系16連、往年の華やかさを残す「ひかり」
この当時、すでに0系による東京「ひかり」は風前の灯だった。

Photo 同じく0系の短編成6連による「ウェストひかり」
今の「ひかりレールスター」の前身といえる列車で、アコモ改造されたデラックスな車内と軽快なビュッフェなどが話題を呼んだ列車だ。一時、僕にとっての「シンデレラエクスプレス」だった。

100 100系16連の「ひかり」
100系には中間2両がダブルデッカーの編成と、中間4両がダブルデッカーの編成があった。
これは前者。中間4両がダブルデッカーのV編成は「グランドひかり」と呼ばれ、最高時速270キロを可能にした列車だったが、騒音問題の絡みで、これは実現しなかった。

300 300系による「のぞみ」
新幹線として初めて本格的にスピードアップに取り組んだ系列で、当初の「のぞみ」は全車座席指定、簡単な食事もセットされていたはずだ。

500 500系による「のぞみ」
僕はこの500系が、100系と並んで新幹線で最も好きな系列だけれども、実際に乗車したことはない。
世界最速時速300キロで疾走して、岡山・広島間の表定速度はギネスブックにも掲載された。

Photo_2 0系「ウェストひかり」のサイド。
団子鼻の愛嬌溢れる横顔こそ、僕ら世代の新幹線のイメージだ。

100_2 100系のサイド。
0系のデザインをリファインし、シャープさを強調したデザインで、今見ても惚れ惚れとする。

300_3 300系のサイド。
いかにも合理的で、メカニカルな印象を持ち、機能美に溢れたデザイン。
良くも悪くも時代を表しているような気がする。

500_2 500系のサイド。
究極の流線型、まさか日本に登場するとは思わなかった好デザイン。
この格好よさがどうして今のN700の無骨さにつながるのか・・

仕事の合間、一瞬の営業活動の隙間で撮影した写真だ。
ただ、ネガフィルムの劣化が激しく、掲載にあたっては相当の画像処理を要した。
このあたり、モノクロやポジフィルムならこういう苦労がないことを思うと、ネガカラーというのは、やはり保存には向いていないフィルムだったのだろう。

Photo_3 話が逸れた。
その写真のちょっと後の時期・・
大阪モノレール車中から見た鳥飼車両基地。
700系も2編成見えるが、あとは100系と300系で、今、改めてこの写真を見ると、新幹線ってのは美しい乗り物だったんだなと・・実感もしている。

来年3月のダイヤ改正で、東海道山陽新幹線から300系が、山陽新幹線から100系が引退するという。
0系の引退がつい、この間であったような気がするのだが、0系は同じ系列でその初期車両を置き換えた時期があり、新幹線としては300系の経年18年程度での引退は標準的なものだろう。
そうなると実は100系の寿命の長さが、延命工事を得意とするJR西日本であったにしても・・新幹線の歴史上、ものすごいことなのかもしれない。

500_3 500系の「のぞみ」が西明石駅を通過する様子。

500系が「のぞみ」から撤退直前の撮影。

300_4 300系が加古川橋梁を通過するごく最近の様子。

100_3 最後に国鉄カラーに復元された100系が、岡山以東で最後の活躍をしていた今年3月の西明石での撮影。